青木叡介
2010年11月06日
「北欧の働き蜂」
数年前の一時期、北欧に本社がある測定器コングロマリットの日本法人のアドバイサーをしていた。本社とのコミュニケーションがうまくいかないので、指導してくれということだった。本社サイドでは、全ての子会社の連結財務諸表を瞬時に把握するシステムを導入しているのだが、なかなか機能しない。日本の財務担当者が、本社の意向を理解していないと言うことだった。誤解は英文の交信録を読んだ結果、なにごともなく解消した。本社の説明不足と、日本側の読解力の欠如に過ぎなかったのだ。
その後、インド、韓国、タイ、シンガポールなどの子会社のアジア地区財務担当者を集めて、連結決算のための会議を中国ですることになり、担当者と一緒に青島に出かけた。高品質な製品が要求されている先端製品の製造工場には、基準に適応するかを計測する精密測定機器は必須品である。このため、中国国内での販売は、笑いが止まらないほどの引く手あまたの状態であった。さすがに基準が一段と厳しい日本向けは無かったが、それ以外の世界各地にもかなりの量を輸出できるほど品質を上げていた。
このコングロマリットは、欧米を中心に、測定業界でユニークな機器やソフトを有する会社を数多く買収している。その上で、相互の製品のシナジー効果を図り、業界でのドミナントなポジションを目指している。私が関与しているときは、日本で言えば、三菱重工みたいな工業分野のみではあったが、4つの部門領域に分けて経営していた。それが、今は測定器の領域のみに限定したようだ。安定的な業績が上げられるように、複数の異なる領域に進出したのであるが、成長分野に焦点を置いたほうがいいと判断したのであろう。
それにしてもこの会社は、集中分野で数多くの会社を買収する一方で、その買収した会社ですら、シナジー効果が生まれないと判断すれば、簡単に売却する点がユニークなところだ。生き残っていくためには、何が最善であるか、どの分野、どの地域に集中した方が株主にとって利益を最大化できるか、常に考えている。
青島での3泊4日の研修会で、最終日のお別れ食事会の時のことである。アジア各地から来た担当者との最後の会合を、今まさに始めようとしたとき、北欧の本社からこのために飛んで来た30歳前の担当者の携帯に、本社から電話があった。「買収候補会社の評価を、明朝まで行え!」と言うのが、その指示であった。「これからホテルに戻って仕事をするので、ここで失礼します。」その若者は、そこにある食事を慌てて口に詰め込んで、急ぎ足で出口に向かった。
アメリカから来ている会議の責任者に聞いたところ、こんな光景は極当たり前だと言う。60代前半のこの人ですら、年の半分以上は出張だそうである。今はアジアが熱いので、アジアに飛来することが多いのである。そんなことを思い出しながら、この会社のウエブサイトを改めて覗いて見た。
「EBIT margin target for year 2011 is 20 per cent.」
2011年の税引前利益の目標を、20%とする。
その後、インド、韓国、タイ、シンガポールなどの子会社のアジア地区財務担当者を集めて、連結決算のための会議を中国ですることになり、担当者と一緒に青島に出かけた。高品質な製品が要求されている先端製品の製造工場には、基準に適応するかを計測する精密測定機器は必須品である。このため、中国国内での販売は、笑いが止まらないほどの引く手あまたの状態であった。さすがに基準が一段と厳しい日本向けは無かったが、それ以外の世界各地にもかなりの量を輸出できるほど品質を上げていた。
このコングロマリットは、欧米を中心に、測定業界でユニークな機器やソフトを有する会社を数多く買収している。その上で、相互の製品のシナジー効果を図り、業界でのドミナントなポジションを目指している。私が関与しているときは、日本で言えば、三菱重工みたいな工業分野のみではあったが、4つの部門領域に分けて経営していた。それが、今は測定器の領域のみに限定したようだ。安定的な業績が上げられるように、複数の異なる領域に進出したのであるが、成長分野に焦点を置いたほうがいいと判断したのであろう。
それにしてもこの会社は、集中分野で数多くの会社を買収する一方で、その買収した会社ですら、シナジー効果が生まれないと判断すれば、簡単に売却する点がユニークなところだ。生き残っていくためには、何が最善であるか、どの分野、どの地域に集中した方が株主にとって利益を最大化できるか、常に考えている。
青島での3泊4日の研修会で、最終日のお別れ食事会の時のことである。アジア各地から来た担当者との最後の会合を、今まさに始めようとしたとき、北欧の本社からこのために飛んで来た30歳前の担当者の携帯に、本社から電話があった。「買収候補会社の評価を、明朝まで行え!」と言うのが、その指示であった。「これからホテルに戻って仕事をするので、ここで失礼します。」その若者は、そこにある食事を慌てて口に詰め込んで、急ぎ足で出口に向かった。
アメリカから来ている会議の責任者に聞いたところ、こんな光景は極当たり前だと言う。60代前半のこの人ですら、年の半分以上は出張だそうである。今はアジアが熱いので、アジアに飛来することが多いのである。そんなことを思い出しながら、この会社のウエブサイトを改めて覗いて見た。
「EBIT margin target for year 2011 is 20 per cent.」
2011年の税引前利益の目標を、20%とする。
2010年10月17日
「He is crazy!」
「He is crazy!」
金曜日の昼に食べ放題になるシェーキーズでピザをほお張りながら、トムは、デニーをそう評しました。「クレージー?」半年前にアメリカに来たばかりの我が身にとって、クレージーとは、今は差別用語になった「気違いである」と同義語でした。「デニーは気が狂っているのか?」一瞬、訳が判らなくなったのです。そう言えば、いやにどうでもいいことにこだわるタイプの人間であることは確かだ。日本から来た技術者が、一人残らず「デニーは困ったものだ。」と悪口みたいな泣き言を言うのを耳にするにつけ、「気違い」であるという評価も間違いがないかもしれないと思いました。
デニーとは、特許がはるか前に切れたにも拘らず、今も主力商品で有り続ける画期的な商品を開発した、以前勤めていた会社で最大の功労者と言ってもいいくらいの、イギリス系アメリカ人の現地法人社長でした。現地法人と言っても、当時は従業員数10数人しかいませんでしたが、今でも珍しい商品開発だけのために設立されたR&D専門会社でした。
私が派遣される2年ほど前に、ニューヨーク州のバッハロー郊外にあった工場の片隅で、日本から技術導入の打合せに来た創業社長に、「おれのアイデアを聞いてほしい!」と、アプローチしてきたのが、このデニーだったのです。そこの会社では、技術顧問の肩書きであったのですが、誰も自分のアイデアを見向きもしないので、そのアイデアを実現してくれるかも知れないと、初対面の東洋人に話を切り出したのです。
「動物的カンがある。」と評された創業者は、何の実績も、評判もないデニーのアイデアを聞くと、直ぐにそのアイデアが世間の常識を覆すものであることと理解したようです。嫌がる本社での開発の代わりに、幾らかでも日本に近いシアトルに、設計や試作のための開発拠点を設けたのでした。
私が赴任したときには、当初の画期的なアイデアに基づく機械の開発が終わり、次の商品に取り掛かっていました。画期的な機械は、日本で様々な改良を加えたせいもあり、市場に大きな反響を呼び、それこそ爆発的に売れ出していました。そんなこともあり、次なる商品の開発にも期待がかかっていたのです、とは言え、アイデアは、長い睡眠時間が必要なようです。デニーにとって、今までの得意分野と違ってもいたこともあるのでしょう。アイデアとしては面白いが、まるで物にならない、商品にならないものばかりが出てきました。「それから、それへと出る訳ないよ。素晴らしいアイデアなんて一生にひとつあればいいよ。」それが一般的従業員の評価でした。
そんな中で、機械の組立工として、デニーと一緒に転職してきたトムは、自分を小僧のように扱うデニーを畏怖していたと同時に、発明家としてのデニーを尊敬もしていたのです。シェーキーズでの話は、如何にデニーが人と違っているのか、自分の道をそれこそ他人を構わずに、歩んでいるかということだったのです。「人と違っているんだ。変わっているんだ。そのために、大発明をしたんだ。」それが彼の言いたいことだったのです。
金曜日の昼に食べ放題になるシェーキーズでピザをほお張りながら、トムは、デニーをそう評しました。「クレージー?」半年前にアメリカに来たばかりの我が身にとって、クレージーとは、今は差別用語になった「気違いである」と同義語でした。「デニーは気が狂っているのか?」一瞬、訳が判らなくなったのです。そう言えば、いやにどうでもいいことにこだわるタイプの人間であることは確かだ。日本から来た技術者が、一人残らず「デニーは困ったものだ。」と悪口みたいな泣き言を言うのを耳にするにつけ、「気違い」であるという評価も間違いがないかもしれないと思いました。
デニーとは、特許がはるか前に切れたにも拘らず、今も主力商品で有り続ける画期的な商品を開発した、以前勤めていた会社で最大の功労者と言ってもいいくらいの、イギリス系アメリカ人の現地法人社長でした。現地法人と言っても、当時は従業員数10数人しかいませんでしたが、今でも珍しい商品開発だけのために設立されたR&D専門会社でした。
私が派遣される2年ほど前に、ニューヨーク州のバッハロー郊外にあった工場の片隅で、日本から技術導入の打合せに来た創業社長に、「おれのアイデアを聞いてほしい!」と、アプローチしてきたのが、このデニーだったのです。そこの会社では、技術顧問の肩書きであったのですが、誰も自分のアイデアを見向きもしないので、そのアイデアを実現してくれるかも知れないと、初対面の東洋人に話を切り出したのです。
「動物的カンがある。」と評された創業者は、何の実績も、評判もないデニーのアイデアを聞くと、直ぐにそのアイデアが世間の常識を覆すものであることと理解したようです。嫌がる本社での開発の代わりに、幾らかでも日本に近いシアトルに、設計や試作のための開発拠点を設けたのでした。
私が赴任したときには、当初の画期的なアイデアに基づく機械の開発が終わり、次の商品に取り掛かっていました。画期的な機械は、日本で様々な改良を加えたせいもあり、市場に大きな反響を呼び、それこそ爆発的に売れ出していました。そんなこともあり、次なる商品の開発にも期待がかかっていたのです、とは言え、アイデアは、長い睡眠時間が必要なようです。デニーにとって、今までの得意分野と違ってもいたこともあるのでしょう。アイデアとしては面白いが、まるで物にならない、商品にならないものばかりが出てきました。「それから、それへと出る訳ないよ。素晴らしいアイデアなんて一生にひとつあればいいよ。」それが一般的従業員の評価でした。
そんな中で、機械の組立工として、デニーと一緒に転職してきたトムは、自分を小僧のように扱うデニーを畏怖していたと同時に、発明家としてのデニーを尊敬もしていたのです。シェーキーズでの話は、如何にデニーが人と違っているのか、自分の道をそれこそ他人を構わずに、歩んでいるかということだったのです。「人と違っているんだ。変わっているんだ。そのために、大発明をしたんだ。」それが彼の言いたいことだったのです。
2010年10月01日
初めての投稿です
その昔、アメリカに居たころ、日本人は壁の花だと言われていました。パーティに来るのはいいが、壁ぎわの椅子に座って、ただニコニコと居るだけと言う有様を皮肉られたものです。その壁の花を、花のお江戸の青木塾でもやっているのですが、そこは河辺さんの偉いところです。毎回のように、「青木さん!ご紹介しましますよ。」と、見知らぬ人を引き合わせてくれるのです。この人とこの人が知り合ったら、何か素晴らしいことが生まれそうだと、頭をめぐらしているのでしょう。「誰も壁の花にしないこと」、これこそが異業種交流会を成功に導く秘訣と、よく理解しておられます。アメリカのホームパーティのやり方、それもベンチャー経営者や希望者の集まりのやり方と言う気がします。本当に感謝しています。
私はと言えば、16年に及ぶアメリカでの駐在員生活を終えて、日本の本社に戻ってきたあと感じたことは、「なんとまあ会社の生活の気楽なものよ!」と言うことでした。仕事は、部下がやってくれる。方向性は、トップが示してくれる。その方向性を、部下に「トップご指示」と伝えるだけでいいのですから、それはそれは楽なものでした。それほどに日本の会社が安定的かつがっちり固まっているということでしょう。それに比べ、アメリカでは、部下の仕事の隅々まで知らないといけません。誰でも2週間の通知だけで退職できますし、急いで雇った後任者が直ぐに順調に業務を引き継ぐことのできないので、そこをカバーしなくてはいけないのです。本当に緊張の連続でした。忠実な部下を何人も抱えても、おんなじことでした。やめるなとはいえないですから。
とは言え、ベンチャーを起こす際は、全く逆のような気がします。そこに、日本の現在の問題点があるのかもしれません。そんな話を、これから書いていこうと思います。何せ、河辺さんに壁から引き離されて、時々ブログにに何か書くようにと依頼された身ですから。
私はと言えば、16年に及ぶアメリカでの駐在員生活を終えて、日本の本社に戻ってきたあと感じたことは、「なんとまあ会社の生活の気楽なものよ!」と言うことでした。仕事は、部下がやってくれる。方向性は、トップが示してくれる。その方向性を、部下に「トップご指示」と伝えるだけでいいのですから、それはそれは楽なものでした。それほどに日本の会社が安定的かつがっちり固まっているということでしょう。それに比べ、アメリカでは、部下の仕事の隅々まで知らないといけません。誰でも2週間の通知だけで退職できますし、急いで雇った後任者が直ぐに順調に業務を引き継ぐことのできないので、そこをカバーしなくてはいけないのです。本当に緊張の連続でした。忠実な部下を何人も抱えても、おんなじことでした。やめるなとはいえないですから。
とは言え、ベンチャーを起こす際は、全く逆のような気がします。そこに、日本の現在の問題点があるのかもしれません。そんな話を、これから書いていこうと思います。何せ、河辺さんに壁から引き離されて、時々ブログにに何か書くようにと依頼された身ですから。