木村 悟

2011年12月17日

スペイン体験記 その16

ルーマニア人の彼と私は早速、指示のあった事務室に向かいました。
ちょっとした螺旋階段を降りて行く時間が心なし、スローモーションに感じたのを覚えています。

スペインに来てから約1年の間、ビザ抜けなどを駆使して滞在を伸ばし、異国での数々の洗礼を浴び、どうにかこの日まで辿りつけたという思いが駆け巡っていたせいかも
しれません。

そんな、思い入れたっぷりな気持ちで事務室の係の方と話しをしました。
やはり、事務室の方も「良かったなー、おめでとう!また、来年な!」と、開口一番、意味不明なことをいってきました・・・。

一体、「また来年」とはどういう事なのか、はっきりさせなければいけません。

「ん?また来年って?」
聞き返しながらも嫌な予感が漂い始めました・・・。

事務室の方は実に何でもないことのように、
「来年、また会おうな!」
と、私達に満面の笑みで応えます。

状況を理解していないルーマニアの彼もニコニコしております・・・。
一体、何事が起きているのかパニックになりましたが、事務室の方にいつから授業が始まるのか、入学手続きはいつやればいいのか具体的な質問をしてみました。

事務室の人間は実に不可解な様子で、こう答えました。
「君達は合格したけど今年は勉強できないよ」
「!?」私は意味が分かりませんでした。
理由を訊ねると、今年のギター科はもう定員が一杯だから私達の席が無いということでした。

私は、「は?」という、状態から怒りの「おい!」という状態へ移行し、結局、「あぁ・・・」と、哀しみしかない状態へと短時間で移り変わる経験を味わいました。

編入試験までしてこんな仕打ちは酷い!!
一体、なんの為の編入試験だ!!
一体、これからどうすりゃいいんだ!!

事務室の人間に当たり散らしてもなんら状況は好転しません。私がどうにもならないと諦め、事務室を後にすると、彼はこう言いました。
「そんなに急いでどうする?来年は入れるんだからいいじゃないか。」
この時、心底、スペインという国が嫌で嫌で仕方がなくなりました・・・。

私のただならぬ様子でルーマニアの彼も何かおかしいと、察したようで、
「どうしたんだ?」
と、訊ねて来ます・・・。
先ほど喜びを共有していた彼と今度は哀しみを共有することになりました。

どうにか彼も理解した様子でしたが、こんな事、ルーマニアでは絶っ対あり得ない、おかしな国だ。と、先ほどの私と同じステップで哀しみまで到達したようでした・・・。

私達はその後、とりあえずコーヒーを飲みにバル(喫茶店)に入ったのでした・・・。



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2011年11月19日

スペイン体験記 15

スペインに来てから、色々な出会いや経験が出来た一年間でした。
とにかく、マエストロも見つけ、音楽院へ編入するため、自分に出来る作業を積み重ねていきました。

そんなこんなで、ついに編入試験の日がやってきました。
スペイン(マドリッド)の音楽院は上級音楽院を頂点として、初等、中等科の音楽院がいくつかあり、各音楽院にはスペインゆかりの音楽家、芸術家の名称が付いておりました。その中のひとつであるアルトゥーロ ソリアという音楽院で試験を行ったのですが、校舎はまさしく、映画に出てくるような洒落た造りで既に、心の中では
“あー、こんな素敵な場所で学べるなんて、まるで夢のようだ!”
と、受かってもいないのに、これから先に起こる全ての事柄が上手くいくような錯覚をしていたことを覚えています。

初めて足を踏み入れた校舎の中も素敵で、色々な楽器の音が聞こえてきました。
ますます、私の中のあこがれの妄想は膨らみます。

最初にソルフェージュの試験があり、音の聴き取り、初見歌唱、リズム取りがあり、j実技が最後に行われました。
何人か編入試験に臨むために来ており、私が希望していた、と、いうより、編入試験で望み得る、一番上のクラスの試験を受けたのは私ともう一人、ルーマニア人の2人が受けました。

試験後、2人で結果を待っていました。
ルーマニアの彼はスペイン語はほとんど話せず、何とか私の酷い英語でコミュニケーションを取ったところ、“もし、この試験が上手くいったら本格的にスペインに来てどんどん、勉強していきたいんだ“と、私と同じ気持ちの上、2人で同じ試験を乗り越えた時間を共有したせいもあってか、上手く言葉が通じ合わなくても、その根本の部分ではとても親近感を私は感じていました。

それからしばらくすると、女性が試験結果を伝えに来ました。
私の顔をニコニコしながら、一枚の紙を渡してくれました。
既にそのニコニコ顔で良い結果に違いないと感じましたが、紙に書かれている文章と合格学年を示す数字を確認するまでは非常にドキドキしていました。

一瞬のことでしたが、真っ先に数字が目に飛び込んできて、一年前に目標としていた学年に合格できたというのが分かりました。ちゃんと、仰々しい音楽院のハンコも押されています。
ルーマニア人の彼も合格していました。
ただ、目標としていた学年には到達していないようでしたが、とても満足そうでした。

この吉報を色々な人に伝えたくて仕方がありませんでした。
ルーマニア人の彼も同様らしく、2人で電話をかけるジェスチャーなどをしていると、
結果を知らせにきてくれた女性が、最後に事務室に寄っていくようにと、やはり、ニコニコした顔で私達を見送ってくれました。

頭の中は試験を受ける前以上にパーっとしておりました。
そんな幸せな時間がこれから事務室で一気に奈落の底に落とされることになるとは微塵も思っていませんでした・・・。



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2011年10月15日

スペイン体験記 その14

ほんの少しずつではありましたが、スペインのマドリッドで寝食が出来る環境をみつけ、いよいよ肝心のマエストロ探しを始めました。

大概、留学に来ていた日本人たちは日本で師事していた先生からの紹介状を携えて先ずはプライベートという形のレッスンを行っていました。
ところが、私の場合、そのような紹介状は一切、持たされずに送りだされました。何のつてもなく、私より一足先にスペインにやって来ていたM君に相談すると、現在、師事している先生はあまり良くないからという理由で紹介はしてもらえませんでした。

そんな時、銀行口座を開けるためにマドリッドでも語学学校に通っていたのですが、
ある日本人の方と知り合うことになりました。

その方もクラシックギターを学ぶべく、マドリッドに来ていました。
当然、紹介状も持ってきており、これから師事するためにも語学を平行して学ぶというプランでした。
マエストロはホルへ アリサというマドリッド上級王立音楽院のギター科の主任教授でした。
当時、6人の教授がギター科でレッスンを行っていましたが、その中でもアリサ教授はアランフェス協奏曲を献呈されたレヒーノ デ ラ マーサというスペインの音楽院で初めて教授に就任した直系の弟子でその指導は師であったデ ラ マーサと同様にとても厳しいという噂は耳にしていました。

そんなマエストロに師事できるなんていいなーと、内心、羨んでいましたが、その日本人の方が、スペインに来たばかりで語学に不安があるから、良かったら一緒にレッスンに通わないかと誘ってくれました。
高々、4カ月先に来ていただけの私でしたがとてもありがたい話しだったので、アリサ教授のプライベートレッスンを受けることにしました。

初めてのレッスンは失意と希望が入り混じった何とも自分が場違いな所に来てしまったようなものでした。
きっと私の余りのレベルの低さにマエストロも言葉がみつからなかったのでしょう・・・。
私にマエストロを紹介してくれた方は幼少からギターに親しみ、日本で師事していた先生も高名な演奏家で、マエストロも非常に思い入れがあった方だということが、良く分かりました。その方の演奏を聴き終えると“いい!!これこそ音楽だ!!”という、満足気な言葉で話しも弾んでいます。

横にいた私は蚊帳の外にいる状態でしたが、その時の自分はとにかくこれからの自分に期待を懸けることしか出来ず、いつかマエストロから評価してもらえる言葉を貰えたらと、やはり失意と希望が入り混じった気持ちで時間を過ごしました。

スペインに来て、先ずは言葉の壁、習慣の壁、そして更に音楽の壁と、どんどん壁に囲まれて行きました。



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2011年09月17日

スペイン体験記 その13

スペインの音楽教育は日本の音楽教育とは異なりました。
義務教育課程では音楽、芸術系の授業、体育の授業は無く、この分野を学びたい者だけが学ぶというシステムでした。

音楽に関して云えば、王立音楽院、私立の音楽学校、個人レッスンなどが音楽を学ぶ手段でした。当時の音楽院は器楽ごとにその修養年数が異なり、ピアノ、ヴァイオリン、チェロなどは10年間でその他の器楽は8年間という長い年数が課せられていました。
また、器楽のプロフェッショナルだけではなく、音楽史、音楽美学、作曲、指揮、音響学など音楽に関する他のプロフェッショナルもその学科により、学ぶ教科も器楽やコースが色々と設置されていました。

王立音楽院も3段階に分かれており、私が学んだクラシックギターでいうと初等科1〜3 中等科4〜6 高等科7,8 というようになっており、上級王立音楽院(高等科)を頂点にして王立音楽院が各地域にあるという形になっていました。
ちなみに現在はLOGSEという新システムになり、どの器楽も14年間の修養年数になっています。

私の場合、クラシックギターを学びたかったので器楽科コースになるのですが、まず、一から学んで8年間かかるという事実にガッカリし、更にはスペイン語で様々な学科を取得しなければいけない現実に初めは嫌になりました。とにかく、早く日本に戻ることしか頭になかった私にはこの8年間という時間の長さは本当に気が遠くなりました。

当時は6歳から音楽院の入学が認められていました。但し、一年間は音楽理論やソルフェージュのみ行い、基礎的な音楽の語法を学んでから、初めて器楽を学べるシステムになっていました。
また、上級王立音楽院で学ぶためには日本でいう高校を卒業してからではないと入学できないため、6歳から始めても卒業するには最短で20歳ということになります。

このように20歳で音楽院を卒業するには家庭環境の差が大きく投影されます。
しかし、中にはある程度、年齢を重ねてから学びたいという人間のために編入試験や飛び級の試験がありました。
私はもちろん、この編入試験を目指して準備を始めました。編入試験には、実技と音楽理論、ソルフェージュが必要です。もともと、クラシック音楽とは無縁の環境に育った私には全ての準備するべきものがどれも非常に高い高い壁に感じ、実際に音楽院で学んでいる学生達は皆、聡明そうで優雅に私の目には映りました。

また、同じ時期にギターを学びに来ていた日本人とも知り合う機会があり、目標を同じにする同志だと嬉しく思ったのですが、彼らは日本で学び、悩み、解決できない事柄があって“どうしてもスペインで学びたかった“という強い意志、動機があったのですが、私は既に、“日本に帰りたい、でもギターもやって上手くなりたい”という、小学生にも劣る弱い意志と甘ちゃんな考えを持っていたので彼らの会話についていけず、ますます自分の能力の無さを思い知らされることになりました。


この時の私はとにかく何の考えも持たず、出来ない事だらけの上、無知の塊でした。



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2011年08月21日

スペイン体験記  その12

翌日、パスポートコントロールに勤めている、名前は確か…ハッサムさんだったと思います。

が、紹介してくれた宿まで迎えに来てくれて、旧市街を案内してくれました。 流石にハッサムさんと一緒にいると、勧誘してくる人はおらず、怪しい細道も心強く探索することが出来ました。
暫く、街並みを歩いているとハッサムさん、ある店の前で歩を止め、「ここは、私の友人がいる店で、とても良い品揃えの所だよ」
と、私のハッサムさんに対する信頼、心強さがマックス状態の時、実に絶妙なタイミングで勧誘してきました。

私も、買うかどうか、分からないけど、見るだけなら…と、何の抵抗もなくそのお店に入りました。 店内は見事なペルシャ絨毯が大小、様々に展示してあり、本当に色彩も見事でした。すると、奥から見事な髭を蓄えた店主らしき人が顏を出し、二階にある別室に案内されました。

ハッサムさんと別れる事に一抹の不安を感じましたが、彼は、「どんなに時間がかかってもいいから、待ってるよ」と、笑顔で彼もまた、別室に消えていきました。
店主は二階にもある絨毯や民族衣装を誇らしげに紹介してくれ、更に自分の日本人の顧客リストを見せてくれ、とても日本、日本人が好きだとアピールしてきます。そのアピールが逆に怪しさタップリだったのですが、どこか憎めません。
私の中でお土産を購入する予定はなかったのですが、店の雰囲気にやられてしまったのか、フードコートのような民族衣装、ジュラブが欲しくなりました。

昨夜、紹介してくれた宿が500円、食事も100〜200円あればかなり豪勢に食べられたので、私の中の、現地、モロッコでの価値観の感覚で、2000円だったら買おうと、心に決めて店主と交渉に臨みました。
店主は絨毯に座るように薦めてくれ、私が選んだジュラブを15000円だとどうだ?と、ふっかけてきます。こんな交渉は生まれて初めてだったのですが、海外にいると防衛本能が働くのかどうか、警戒心だけは高くなっていたので、ギリギリの所まで自分が買っても良い値段はいうまいと、慎重に話しを進めていきました。

直ぐに5000円まで値が下がったのですが、そこからがとても長い道のりでした。店主さんも一時休憩とばかりに階下からミントティーを持ってきてくれました。
店主は5000円以下では譲らないぞと、私にジャブを放って来ます。まずはこのジュラブが厳選されたラクダの毛で出来ている事やたくさんの写真を見せてくれます。
私は早くも自分で購入を決めた値段を盾にして、自分は貧乏学生でこれ以上出すとスペインに戻る事が出来ないんだと、力説します。
更に微妙に4500円まで下がりました。

ここまで30分ぐらいは経過していたのですが、いつの間にかこの値段交渉に本気で取り組んでいる自分がおり、最初はそこまで欲しいと思っていなかったジュラブがとても、欲しくなっていました。

店主は戦術を変えてきました。このジュラブを作ったのは実は自分の女房と娘だと、写真を見せてきます。高い山の上で作っていてとても大変な作業なんだと。少し、泣きも入ってきました。こう言ってはなんですが、直ぐにウソだとわかりました。
私も負けずに母親を病気にして泣きを入れます。更に父親には死んでもらいました。

この時、一時間は経っており流石に疲れ果ててきました。なかなか折り合いがつかないと判断した私は交渉では最終手段であろう、
「もう、いらない」
を放つと、店主さんは最高に悲しそうな表情で、紙切れに2500円と書いてきました。

ここに来てこの値下げ、私は「勝った!!」と、内心、喜びつつも、極力、表情には出さずに「今日の食事を抜けば買える値段だから、頂きます。」と、苦しい言い訳を吐きながらそのジュラブを身につけました。

下に降りるとハッサムさんは既に姿が見えなかったのですが、初めての値段交渉で、自分の第一印象にかなり近い額で購入出来た喜びと、店主に対する勝利感とで店主に挨拶をして店を出ました。
一歩、外に出るとまた、勧誘の嵐でしたが、気分が良かったので、
「このジュラブ、いくらだと思う?」
と、聞くと
「ん?まず500円以上だったら買わないな」
と、耳を疑う答えが返ってきました。

勧誘される度、質問してみました。
答えは300〜500円でした…。
先程の勝利感は消し飛び、通りすがりの観光客が現地の感覚で買い物は出来ないんだと思い知らされました。

宿に戻る道すがら、更に疑い深くなった私は、ハッサムさんは全てこうなる事を予測した上で、声を掛けてきたのではないだろうかという思いに至り、だとしたらハッサムさんの勧誘方法は実にスマートで、太刀打ち出来ないなぁーと、また、モノを買う時の値段を自分で量るのは何て難しいんだろうと思いました。


aokijuku at 00:03|この記事のみを表示コメント(0)
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