2018年06月23日

ビュッケブルグ歳時記 181

サッカー哲学


 今のドイツは先週始まったサッカー世界選手権に沸いています。先回は優勝を飾ったドイツですが、今回は対メキシコの第一戦で残念ながら1:0で負けてしまいました。
 サッカーはこの国の国技なので、敗戦についても色々原因が取り沙汰されたりしているのですが、中にG. 氏という哲学者のサッカー感が目に入りました。新しい見方を興味深く読みましたので、皆様にもお伝えしてみます。


 「サッカーは不公正な競技でしょうか」という問いかけが標題で、G. 氏 へのインタビュウーの形です。彼の発言を書き並べてみます。
 「手 という、人間の持つ素晴らしい機能機関を使うことを禁じた競技サッカーとは、突き詰めると、人間の身体を原始に戻し、進化を拒否することを意味し、サッカーの脚競技は一種のアントロポロギー(人類哲学)の実験と云える。そして、脚競技の果てに、オーバーヘッドキックが必要になった場合などは、それこそサッカー競技の最も芸術的な美しいシーンとなる」
 しかし、ハンドボールやバスケットボールのように、ゴールに入る点が多いことが目的なゲームと違って、いくらやってもゴールが入らないサッカー競技は、退屈で、面白くないという声が多いが、との質問には次のような返事がありました。「その質問は、サッカー理解者とそうでない人の区別から来る質問である。理解者は、サッカー競技はゴールに入れないことが競技の目的でもあることを知っている。敵方のボールをゴールに入れないことと、味方のボールをゴールに入れることの2つが、サッカーの競技目的である」
 今回のように1:0で勝負が決まる場合は、勝者は満足するだろうが、反面、負けチームの被る精神的打撃はそれ相応に大きくなると思われるが、そこからサッカーは不公正な競技ではないかとの問いかけに対しての返答は「サッカーでは負けていたチームとか、不評の声の多かったチームが最後にどんでんがえしとして、逆転勝ちする可能性もあるわけで、そこには公正も不公正もない。ここから、サッカー世界は決して平穏世界ではないことがわかるであろう。実際的には、不公正で、破損した、野卑な世界ともいえる。そこから競技という意味だけではなく、実生活に通じるものがあるのだ。サッカーWMも最後に残ったチームは90分間に、同点の場合は延長戦になり、そして場合によれば11メーターキックで勝負を決めることになる。これは劇的事件と云ってもいいのではないか。このようなことは人生でも同じことで、いろいろと疑問が湧いたり、悲しみも、喜びも起こるのは誰でもが知っていることで、競技と同じことと考えてよいと思われる」
 フランス人の哲学者 カミユは、若い頃ゴールキーパーとして活躍していましたが ”わたしは、ボールは何時も予期しない方向に飛んで来ることを知っていた。これが自分の人生への教訓となった”という言葉を残していますが、と訊かれると、「やはりここでもサッカーと実生活の並行線が見えるのではないか。サッカーでは時によって勇気を持って一人でボールをドリブルしながらゴールを目指す選手を目にする場合もあるが、実社会でも冒険を望む人は、自分から壁を破って危険を冒すことを選択するわけで、その危険度は同じだと思われる」との返事がかえってきたとあります。


 サッカーを違った角度から見ることを知らされた感じがあります。


 対メキシコ戦ではドイツチーム内に作戦誤解感情があったため、分裂感があったということも耳に入るのですが、選手間の連帯感を新たにして、土曜日のスウェーデン戦に対して欲しいと思うのが、サッカーファンの願いだと思います。


aokijuku at 10:31│コメント(0)

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