2018年02月10日

ビュッケブルグ歳時記 172

Zeugnis = 成績証明書


 2学期制のこの国では先週の金曜日2月2日が学期の終わりで、基礎学校3年生以上の生徒達はそれぞれ、第一学期の成果が記された成績表を受け取りました。1、2年生は、受け持ちの教師が記した言葉による批判が成績表となります。
 成績は、日本と同じように1から6の点数でつけられるのですが、最上が1で、最下が6というのが違うことです。


 終業式の後に続く月曜日(即ち2月5日)は、”動かし得る休日”として学校は休みでした。こちらではこの学校休日は、州で決められていると思われるのですが、結構多くあるように思えるので、参考のために書きました。例えば国民休日が火曜日になった場合には、その間の月曜日を可動休日として学校は休むわけです。4日間の連休となり、家族との小旅行も出来るわけです。
 

 わたしの受け持っているピアノは部活としてなので成績をつける必要は無いのですが、基礎学校の生徒には、なにか、どこかで褒める点を探して、なるべく良い点を付けたりして、忍耐の要る練習を奨励するようにしています。

 今日は生徒の一人、テアのことを聞いていただきたいと思います。
 テアは、昨年、4年の基礎学校を終えて、ギムナジウム(ドイツの高等学校)に進学した生徒なのですが、5歳で基礎学校に入学が許されたという、心身ともに成熟度を評価されていた生徒だった(過去形に注目を)のです。ピアノについても、一つの音を弾いて、その音が消えるまでじいっと聞き入るとか、雨の音を作ってみたの、などという、他の子どもたちにはなかった音との戯れで、わたしを驚かせることが度々でした。そして又、宇宙にはすごく興味があるのだと云って、太陽から近い順に惑星の名を教えてくれたりする子でした。なんとなく物事の原点を考えているかのような、哲学的とも思える印象がありました。
 それが高校に行くようになって変わってきたのです。ピアノの練習もしなくなり、「今、したいことは眠むることだけ」だと云ったりするのです。そして、「今の学校には友達は一人もいない」とか、「先生がなにか云っても私の頭に中には鳥が飛んでいて、そのことだけしか考えられない」とか、「この間から、セラピーに行っているの」などと云うのを聞くと、どうしたものかと心配になっていました。

 そこへ、昨日、母親が話しに来たのです。
 ピアノを教えるという長い経験から、近頃の、保護者の教育観点もわたしの時代とは変わってきていること知っているつもりなので、注意して話し合うことから始まったのですが、母親のおかれている立場も知ることが出来て、良い話し合いになったと思います。
 テアだけではなく、母親も心理学者の助けを借りることになったそうですが、その内容が自分には満足出来ないとか、このままで行くと、高校最初の年も落第になるかもしれないが、1年の余裕があるのでこの点は余り気に掛けない。テアが思春期に入ることを考えると、ピアノの練習をしないことは一時の停滞時期として考えてもらいたいなど、いろいろ、わたしも考え直すことが必要だと思わせられた時間でした。ピアノについては両親と連絡し合って見守ろうということになりました。


 生徒たちの一学期の成績を聞くと、ピアノにきている子ども達は平均点が1から2までのような、良い成績の子が結構多いのです。そこへ更にわたしが思って、云いたいのは「ピアノに限らず、何かを習うことはいいこと。練習が必要だから」なのです。練習の厳しさを、子どもたちに知らせるのはいいことだと思うのです。これは、少し遅過ぎますが、わたし自身に言い聞かせることでもあるのです。
 これがわたしの学期終末日でした。


aokijuku at 11:35│コメント(0)

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