2017年12月09日
ビュッケブルグ歳時記 168
腑に落ちない事ごと 4
今回はこの国でコミュニケーションが、友達間、クラス、学校という子ども達の共同体造りにどう取り扱われているかをお伝えしたいと思います。
この国の学校でもいじめとか暴力行為があります。それに対して「Soziales(社会生活)を学ぶ学科」として、5年生の必修科目になっている学校が多くあるのです。この制度は全部の学校がではなく学校のある地域によって違うのです。どの都市でも問題の多い、低階級市民が多い地区があり、そこにある学校では、貧困、低い教養度から来る暴力行動が多い外に、難民児童の融合問題が多くあるので、その解決にこの科目が必修となっているのだと思われます。
あるクラスの授業内容を書いてみます。
この時間には「規則を自分たちで造り、それを守る」「皆がお互いを配慮する」を学ぶことが中心です。
今日の授業の課題は「5年B組の”自信”を築こう。どうしたら造れるか」です。
教師は3本脚の椅子を黒板に書きました。そしてこの椅子を支える3本の脚は「出来ると自信を持つこと」「その自信を互いに認め合う」「そしてこの2つに責任を持つ」という意味だとの説明をした後、クラスの皆で、それぞれが出来ることを話し合うことに進みます。各自が得意とすることをあげ、級友がそれを評価するかを問い、それぞれの持つ力が何処で役に立つかを話し合うのです。自分が出来ることを言えない生徒が居ると、友達が「君は冗談を言うのが上手いじゃないか」などと言葉を添え、助け合うことを学ぶというわけです。またトルコ人の子どもが自分の家では、やり方が他の友達の家と違う事が多いという悩みを打ち明けたりするのです。内情を知ることから、今まで近づかなかった子ども同士が友達になった例も多くあるようです。またそこから、担任の教師は子ども達の家庭環境をより良く知ることにもなるということです。このように、落ちこぼれたように見える級友を引きずり上げて一緒に進むことになり、それがクラスの自信、誇りとなるわけです。これはまた、社会に出た時に移民を受け入れる精神に繋がり、外国人との共存を学ぶことであるように思えます。
ケンカに付いても、もし起っても、暴力ではなく言葉で解決する努力の大切さを
教えられるのです。これもコミュニケーション力養成教育だと思われます。ここでまた、話すこと、言葉の大切さを見せつけられます。
このような授業をみると学校の在り方を考えさせられます。ここからは学校とは学びの舎とともに、社会生活への準備の舎という印象が強くなりますから。
コミュニケーションから、学校の在り方まで話題がどんどん大きくなりました。
最後に全く関係のない、オカシな出来事をお話しします。
先日、古い手紙の整理をしていた折りにある1通が目に入りました。差し出し人はALDI という、ドイツ最安のスーパーです。読んでみると、開店間もない頃の
1998年に、わたしが出したこの店の美点、特に店員の機転と親切さを褒めたたえた手紙への返礼の手紙でした。全く忘れていたのですが、その後、店員が会計所に並ぶ全ての来店客に対して、こんにちはとかハローとかの挨拶をするようになったのです。これは今ではこの国の何処のスーパーでも実行されていることです。
この挨拶習慣を知った時に、もしかしら、わたしの手紙が?!と、思ったことを今思い出したのです。ウヌボレ妄想と笑われても、こう思えることは一つのコミュニケーション成功例と思うのですが、いかがでしょうか。
今回はこの国でコミュニケーションが、友達間、クラス、学校という子ども達の共同体造りにどう取り扱われているかをお伝えしたいと思います。
この国の学校でもいじめとか暴力行為があります。それに対して「Soziales(社会生活)を学ぶ学科」として、5年生の必修科目になっている学校が多くあるのです。この制度は全部の学校がではなく学校のある地域によって違うのです。どの都市でも問題の多い、低階級市民が多い地区があり、そこにある学校では、貧困、低い教養度から来る暴力行動が多い外に、難民児童の融合問題が多くあるので、その解決にこの科目が必修となっているのだと思われます。
あるクラスの授業内容を書いてみます。
この時間には「規則を自分たちで造り、それを守る」「皆がお互いを配慮する」を学ぶことが中心です。
今日の授業の課題は「5年B組の”自信”を築こう。どうしたら造れるか」です。
教師は3本脚の椅子を黒板に書きました。そしてこの椅子を支える3本の脚は「出来ると自信を持つこと」「その自信を互いに認め合う」「そしてこの2つに責任を持つ」という意味だとの説明をした後、クラスの皆で、それぞれが出来ることを話し合うことに進みます。各自が得意とすることをあげ、級友がそれを評価するかを問い、それぞれの持つ力が何処で役に立つかを話し合うのです。自分が出来ることを言えない生徒が居ると、友達が「君は冗談を言うのが上手いじゃないか」などと言葉を添え、助け合うことを学ぶというわけです。またトルコ人の子どもが自分の家では、やり方が他の友達の家と違う事が多いという悩みを打ち明けたりするのです。内情を知ることから、今まで近づかなかった子ども同士が友達になった例も多くあるようです。またそこから、担任の教師は子ども達の家庭環境をより良く知ることにもなるということです。このように、落ちこぼれたように見える級友を引きずり上げて一緒に進むことになり、それがクラスの自信、誇りとなるわけです。これはまた、社会に出た時に移民を受け入れる精神に繋がり、外国人との共存を学ぶことであるように思えます。
ケンカに付いても、もし起っても、暴力ではなく言葉で解決する努力の大切さを
教えられるのです。これもコミュニケーション力養成教育だと思われます。ここでまた、話すこと、言葉の大切さを見せつけられます。
このような授業をみると学校の在り方を考えさせられます。ここからは学校とは学びの舎とともに、社会生活への準備の舎という印象が強くなりますから。
コミュニケーションから、学校の在り方まで話題がどんどん大きくなりました。
最後に全く関係のない、オカシな出来事をお話しします。
先日、古い手紙の整理をしていた折りにある1通が目に入りました。差し出し人はALDI という、ドイツ最安のスーパーです。読んでみると、開店間もない頃の
1998年に、わたしが出したこの店の美点、特に店員の機転と親切さを褒めたたえた手紙への返礼の手紙でした。全く忘れていたのですが、その後、店員が会計所に並ぶ全ての来店客に対して、こんにちはとかハローとかの挨拶をするようになったのです。これは今ではこの国の何処のスーパーでも実行されていることです。
この挨拶習慣を知った時に、もしかしら、わたしの手紙が?!と、思ったことを今思い出したのです。ウヌボレ妄想と笑われても、こう思えることは一つのコミュニケーション成功例と思うのですが、いかがでしょうか。
aokijuku at 22:58│コメント(0)│
