2017年06月24日
ビュッケブルグ歳時記 157
民主主義にまつわり・・・Documenta(ドキュメンタ)
先回は年月とともに政治づいているソングコンテストをご紹介しましたが、今回はこれも政治が濃厚に息ずいている美術関係のイヴェントをご紹介したいと思います。
標題の「ドキュメンタ」と名ずけられる展示会は、5年毎に100日間、地図で見るとドイツ国の真ん中に位置するカッセル市で催される、グローバルな前衛現代美術展示会です。
この展示会の発祥は1955年に、ある美術教授が、ナチス時代には発表を許されなかった芸術作品を改めて社会に展覧することを目的としてカッセル市で始めたもので、現在はカッセル市とヘッセン州が主催者となっています。そして展示される作品の内容は文字通り時代を反映するテーマが自由に息づくアバンギャルド作品が多く、そのため屋内だけではなく、青空の下にも作品が展示されるのです。1922年に新築されたドキュメンタ・ホールだけではなく、市の公園や広場に、ある市民層の目には不可解で奇妙だと印象を与えるような作品が展示されるのです。
ですから、100日間に約百万人と予想される観覧者の殆どが1日中の予定で、リュックサックを背負い、市内を歩き回って美術芸術作品観賞を楽しむのです。
今回は160人の芸術家が出品しているそうです。
14回目の今年は「協力」を考え、4月ー7月の100日間、ギリシャのアテネ市で、同じ展示会が開かれたということを書き添えておきます。
開会日にはギリシャとドイツ両国の大統領が出席し、独大統領は開会の辞で、
政治的展覧会であると明言し、「真相と欺瞞が格闘している現世」を映し出す展示会だと表明したそうです。文化大臣も、揺れている今の世界に狼狽しながらも、そのような社会を揺さぶり鼓舞していることがわかる展示会であるとして、社会的にも政治的にも有意義なイヴェントとしています。
開会日の記者会見では、シリアからの避難民である一バイオリストの演奏があったということです。ここにもドキュメンタの政治性が見えます。
このようにドイツだけでなく、ヨーロッパでは音楽、美術など芸術にまで政治が入り込んでいると感じるのです。こちらの人達にとって政治は特別なものではなく、生活の中にある「必然的なもの」となっているという感じです。そこから
自分たちの社会を、生活を少しでも良くしようということに、こちらの人は無意識になっているほど、積極的だと言えると思うのです。
日本ではこれほど政治が市民の興味を引いていないように感じます。その理由をわたしなりに考えてみた結果は、大部分の市民の生活水準がとても高いので、現在の生活に満足している国民が多いことから、政治に対する感心が薄いのではないかという思いにたどり着きます。日本は衣、食、住のどれも非常に高い水準にあります。充分な食事もとれない貧困層の子ども達や、老年困窮問題なども耳に入るのですが、満足しきっている中級階層の国民の多数の影に隠れて彼らの声は薄くなっているように思えます。
このように、国民の政治興味が薄くても高水準の国勢になると思うと、市民の政治への積極性は重要ではないのかとの疑問も出て来るのですが・・・
民主主義には「平等」が謳われています。高低の差を出来るだけ少なくする社会を作るためにはやはり、庶民の積極性が必要なのではないかとも思うのです。
先回は年月とともに政治づいているソングコンテストをご紹介しましたが、今回はこれも政治が濃厚に息ずいている美術関係のイヴェントをご紹介したいと思います。
標題の「ドキュメンタ」と名ずけられる展示会は、5年毎に100日間、地図で見るとドイツ国の真ん中に位置するカッセル市で催される、グローバルな前衛現代美術展示会です。
この展示会の発祥は1955年に、ある美術教授が、ナチス時代には発表を許されなかった芸術作品を改めて社会に展覧することを目的としてカッセル市で始めたもので、現在はカッセル市とヘッセン州が主催者となっています。そして展示される作品の内容は文字通り時代を反映するテーマが自由に息づくアバンギャルド作品が多く、そのため屋内だけではなく、青空の下にも作品が展示されるのです。1922年に新築されたドキュメンタ・ホールだけではなく、市の公園や広場に、ある市民層の目には不可解で奇妙だと印象を与えるような作品が展示されるのです。
ですから、100日間に約百万人と予想される観覧者の殆どが1日中の予定で、リュックサックを背負い、市内を歩き回って美術芸術作品観賞を楽しむのです。
今回は160人の芸術家が出品しているそうです。
14回目の今年は「協力」を考え、4月ー7月の100日間、ギリシャのアテネ市で、同じ展示会が開かれたということを書き添えておきます。
開会日にはギリシャとドイツ両国の大統領が出席し、独大統領は開会の辞で、
政治的展覧会であると明言し、「真相と欺瞞が格闘している現世」を映し出す展示会だと表明したそうです。文化大臣も、揺れている今の世界に狼狽しながらも、そのような社会を揺さぶり鼓舞していることがわかる展示会であるとして、社会的にも政治的にも有意義なイヴェントとしています。
開会日の記者会見では、シリアからの避難民である一バイオリストの演奏があったということです。ここにもドキュメンタの政治性が見えます。
このようにドイツだけでなく、ヨーロッパでは音楽、美術など芸術にまで政治が入り込んでいると感じるのです。こちらの人達にとって政治は特別なものではなく、生活の中にある「必然的なもの」となっているという感じです。そこから
自分たちの社会を、生活を少しでも良くしようということに、こちらの人は無意識になっているほど、積極的だと言えると思うのです。
日本ではこれほど政治が市民の興味を引いていないように感じます。その理由をわたしなりに考えてみた結果は、大部分の市民の生活水準がとても高いので、現在の生活に満足している国民が多いことから、政治に対する感心が薄いのではないかという思いにたどり着きます。日本は衣、食、住のどれも非常に高い水準にあります。充分な食事もとれない貧困層の子ども達や、老年困窮問題なども耳に入るのですが、満足しきっている中級階層の国民の多数の影に隠れて彼らの声は薄くなっているように思えます。
このように、国民の政治興味が薄くても高水準の国勢になると思うと、市民の政治への積極性は重要ではないのかとの疑問も出て来るのですが・・・
民主主義には「平等」が謳われています。高低の差を出来るだけ少なくする社会を作るためにはやはり、庶民の積極性が必要なのではないかとも思うのです。
aokijuku at 00:30│コメント(0)│