2017年03月25日

ビュッケブルグ歳時記 151

外交に大切な「話し合うこと」について  2


 今ヨーロッパは、先頃の、幸いにもヨーロッパ同盟継続に賛意するとの結果になったオランダ選挙の後、主要国であるフランスとドイツの選挙を前にして60年の歴史を持つEU連盟の将来が危ぶまれています。 
 先回のブログでは、トルコとドイツ両国間の外交問題を取り上げ、独占政治を欲する国と民主主義を守る国との外交には「話し合うこと」が残されていて、平和のために必要なのは、銃とか戦車などの武器ではなく、言葉という武器であるのではという意見に賛成すると書きました。そして市民に出来ることはと考える時、行き着くのはやはり、何処ででも、誰とでも、誰でもが自分たちの意見を言い合える社会を作るべきだと思うのです。そしてまた、考えることも、それを公表することも出来る自由のある社会を作るのは教育だという結論に到達するのです。


 「何かを学ぶ」には、本を読むとか、他の人から教わるとか数えきれないほどの方法があると思いますが、「学校」は、学ぶということにおいては最高に大きな役目があると思います。あいうえおも、ABCも、1+1=2も学校で習ったことです。
 私たちほとんどの市民は、学校で習った知識がその人の基礎知識として生涯を共に歩んでいるという感じや経験を持っていると思います。意識して考えると、学校で習った知識はとても大きな力を持っていることがわかります。
 ここで改めて考えるべきだと思うのは、学校教育は知識学習だけで良いのかということです。学校で習う学力知識がその人の基礎知識になるだけの教育力があるならば、社会で生活してゆく時に必要な人間としての役割に必要な事ごとをも教育するべきではないかと思うのです。
 その筆頭に「話すことを学ぶ」を挙げたいのです。昔の日本の学校では、授業は教師が教えることを生徒は学ぶという知識習得のためには良い教師権威形でした。授業外では生徒会などがあって、この場では生徒が意見を云えたとは思うのですが、今でも校則は学校側が作り生徒はそれに従うということを聞くと、少しも昔と変わっていないという印象が消せません。
 「学校で学ぶことの成果の大きさ」を再考するべきだと思います。学校で習ったことは、その人の生涯中に残るものなのです!
 オバマ大統領になったときには、日本では彼の演説の上手さが賞賛されました。新聞の広告欄が彼の演説集出版やレトーリックに付いて本の紹介でいっぱいになったのに驚いたのを思い出します。同時に、このような本を多くの日本の政治家読んでくれるのかなあとあやぶんだことも記憶に残っています。


 ドイツの学校教育では「口答」が成績の50%を占めるということは前にお伝えしました。ここでこのシステムを云々することは避けますが、日本で、ある一時期行われ、何をしてよいか判らないからという理由で直ぐ中止になった「総合学習」のことを考えるととても残念な気がします。「総合学習では話すことを学ばせる」とのきちんとした目的が示されて、その時間に自由に話し合うことをしていたら、日本の子ども達も自分の意見を形作り、それを語り合って、お互いの理解のために役立てることを学んでいたのにと思うからです。そしてこれは理解力のある社会形成の第一歩になり、ひいては有為な国際外交手段になったのにと思うのです。
 「話せる人」を養成することは「グロバール人」教育だ、といっては間違っているでしょうか。
 


aokijuku at 22:43│コメント(0)

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