2016年12月24日

ビュッケブルグ歳時記 146

2016年の終わりに考えること 2


 ここで最近思いついたことがあります。日本と少々違うと感じる一事です。
 日本で言われている「言論の自由」は、ドイツでは「Meinungsfreiheit」です。
Meinung は意見、考えという意味です。Freiheit は自由。ですから「意見を持つ自由」と訳せるわけで、国民は誰でもどんな意見でも持ってよいという、意見に対する自由権を主旨にした感じがする訳のように思われ、この解釈がこの国の政治が社会に浸透している要因かとも感じるようになったのです。  


 日本でも「言論の自由」はやはり大きな意味を持っていることと思います。
そう考えると、教員に中立を強要することは、彼らの意思表明の自由権を脅かすことになるのではと疑問がわくのです。そして、個性を重要視する教育方針にも反するのではないかとも思われます。教員も各々が考えを持っていてそれは教員それぞれの個性であるはずです。それを隠して教育することは、生徒の個性を無視するのと同じように見えるのです。生徒は何処で、各自が持っている個性を表明してよいことを学ぶのでしょうか。

 教師が国の教育方針に縛られることは、教師共々、学校は国の統制の下のあることになるわけでしょうか。結果は、政治教育が現在の与党の支持になるということを意味するのかと思うと、教師、生徒が持つ「自由権」は、どうなるのでしょうか。
 既述のように、ドイツでは教師は個人の支持する意見を生徒に押し付けることは禁止されていますが、例えば教師の服装から、その教師がどの党の支持者であるかが明瞭に判ることもあるのです。みどりの党などがその主な例です。このように、その人の持つ意見は自由に表明出来る社会なのです。


 ここで「言論」を「意見表明」
ーー(Meinungsfreiheit を辞書で引くと、普通の辞書には「言論の自由」とありますが、ある辞書には「言論(意見表明)の自由」とあります。上述の「どんな意見を持ってよいという自由」が正しくて、言論だけでは意味が足りなのでは、という解釈は、もしかしたらわたしの無知をあからさまにしたことになるのかと心配になります。有識者は言論の前に意見があることをとっくに察知しているのかもしれないと気づいたのですが、それでも尚、「言論」を「意見表明」に置き換えて生徒とともにその効果を考えてみることは無益ではないと思います。「何でも云える自由」ではなく「あることに対してどう考えても許され、それを公表する自由」が、民主主義には謳われていることがより良くわかるのではないでしょうか。自身の無知から、年少生徒を同等にみなすことからきた意見ではありますが。
 また、ここから教師達もそれぞれの意見を持っていて、それを授業で表明する場面になれば、学校全体の「意見表明の自由」を感じ取り、将来は、異なる政治意見から生徒は自分の考えを選び取るとか、聞いた意見を元にして、自分の考えを培うということにもなると思うのです。もちろん、その枠をコントロールする教師の力量はとても重要だと思います。
 学校が政治に自由に接することが出来る形になることは、社会もそうなるわけです。社会は、学校を終えた子ども達が作るものなのですから。教育が社会革命をするわけです。ここから教育革命が社会革命の先になるという意見になるわけです。

                             つづく

 2016年も過ぎて行きます。読者の皆様、良い新年をお迎え下さい!   


         

aokijuku at 00:30│コメント(0)

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