2016年09月10日

ビュッケブルグ歳時記 139

新学期


 9月はドイツの新学期です。今回は、変わってきているこの国の学校教育の様相をお伝えしてみます。


 戦後も固持してきたドイツの学校制度は、下(本課程)・中(実業中等)・上(高等=ギムナジュウム)の形であることを思い出して下さると思いますが、今、この形での生徒配分が時代とともに大きく変わってきているのです。
 本課程6年で終わる学校資格では、ドイツが誇りとしてきた徒弟制度でも学ぶ職場が見付からないということで、本課程学校は非常に少なくなってきているのです。その結果、子ども達だけではなく、保護書もこぞって、どうせ取るなら最高の終了証を取るべきだという声が大きくなり、Abitur(この国では大学入学試験は無く、その代わりがAbitur=高校卒業及び大学入学資格証で、学校修了証としては最高のもの) を目指す子どもの数が圧倒的に多くなっているのです。40年前には卒業生の10%だったのが、今は50%、いずれ70%までに増加するだろうと予想されています。 このこと自体は教育向上と見なすことが出来ますが、その裏には数々の障害があるようです。例えば、子どもの成長度により入学時が決められるのですが、後のことを考えて入学時を1年遅らせるとか、より良い終了成績をとるために家庭教師を頼むとかの方法になり、これは成績が経済余裕に左右されるという、不平等に繋がると批判されています。Abiturは今、”大量生産物”になってしまったが、そこからわれわれが得るものはあるのか、と云う声が大きく聞えます。
 また、ワイマール時代から13年であったAbiturまでの学年が、10年ほど前からほとんどの州が12年制になったことも変化したことの一つです。
 もう一つ大きく変化したことをお伝えしなくてはなりません。Abiturの試験問題は、昔は、担任教師の提出した三試案から、ギムナジュウムのある地方の教育官庁が選抜したものが用いられていました。これは、各学校によって出題問題が違うということを意味します。それが数年前から、Zentralabiturと呼ばれる全国共通問題を用いるようになったのです。
 このことは、今までの学校、教師による特殊性のあった授業法から、ムルチ・チョイスに合う、良い点を取れる授業法になり、これは生徒の思考能力をついばみ、想像感覚の発展を阻む、として大きく批判されています。
 

 このような教育情景変化に対して次のような再考察案が出ています。
 「我が国の多様な学校システムは、子ども達一人一人が、その子の持つ適応性と興味に応じた教育を受ける事が出来るように考えられて作られたものである。
理想の学校とは、その子の持つ才能と適応性を伸ばすことである」「Abiturが”大量生産”されるとなると、その後に続くのは、それこそ”運命的ともいえる、人間同士の押し合い競争”だ。ここで考えなければならないのが、最高のものが最秀か、と問うてみることではないか。それぞれが、自分の目指す職業にAbiturが必要かどうかをよく考えてみよう」
 これ等の声が、現在の教育状況への言葉です。


 気が付いて、面白く思ったのはドイツの教育が日本の形に近づいていることです。 日本のように猫も杓子も大学に行くのがAbiturの大量生産、試験問題全国同一、後に続く職業選択の苦渋、不満足になる可能性など、同じように見えます。                                                                     
 ですから、ここに挙げた再考察案は両国で考える必要があるように思えます。学校教育の黄金点は、左右に分かれた両国システムの真ん中にあるのかもしれませんから。

aokijuku at 01:00│コメント(0)

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