2012年03月29日
【見たり聞いたり】65 「帝国劇場と渋沢栄一」
ブロードウエイ・ミュジーカル日本上陸から50年未だこの幸四郎の「ラ・マンチャの男」を越えるミュウジカルはない。セルバンテス/ドンキホーテ松本幸四郎、アルドンサ松たか子と大きなたて看板が帝国劇場の前を通るとき目に飛び込んできました。勉強会が帝劇の地下二階にある神戸大学の同窓会会館であるので時々帝劇の前を通ります。
今年は渋沢栄一没後80年で翁を見直そうと本屋にも関連する本がたくさん見られます。
帝国劇場も渋沢栄一のおかげで出来たと聞きましたがそこに至るまでに日本初の女優の川上貞奴(1871〜1946)の努力が関係しています。
川上貞奴は1894年自由民権運動の活動家川上音二郎結婚し、1899年川上音二郎一座はアメリカ興行でサンフランシスコに行き、そこで女型は許可しないとのことから貞奴が舞台に立ったので女優第一号と言われています。その後ロンドンやパリの興行も大成功しました。貞奴は西洋の劇場が素晴らしいのに日本の芝居小屋はトイレも完備してないみすぼらしいものでこれではいけないと当時飛ぶ鳥を落とす勢いの渋沢栄一に面会を求めて、日本にも近代劇場の必要性を訴えました。渋沢栄一には当時毎日寄付金を求めて多くの人が玄関に並んだそうです。簡単には会う事はできず、貞奴も何日も並んで面会の機会をうかがいやっと会えた時に今日の帝国劇場の必要性を強く訴えてたとのことです。
帝国劇場は川上貞奴の確かな先を見る目の産物であることを改めて知りました。
今年は渋沢栄一没後80年で翁を見直そうと本屋にも関連する本がたくさん見られます。
帝国劇場も渋沢栄一のおかげで出来たと聞きましたがそこに至るまでに日本初の女優の川上貞奴(1871〜1946)の努力が関係しています。
川上貞奴は1894年自由民権運動の活動家川上音二郎結婚し、1899年川上音二郎一座はアメリカ興行でサンフランシスコに行き、そこで女型は許可しないとのことから貞奴が舞台に立ったので女優第一号と言われています。その後ロンドンやパリの興行も大成功しました。貞奴は西洋の劇場が素晴らしいのに日本の芝居小屋はトイレも完備してないみすぼらしいものでこれではいけないと当時飛ぶ鳥を落とす勢いの渋沢栄一に面会を求めて、日本にも近代劇場の必要性を訴えました。渋沢栄一には当時毎日寄付金を求めて多くの人が玄関に並んだそうです。簡単には会う事はできず、貞奴も何日も並んで面会の機会をうかがいやっと会えた時に今日の帝国劇場の必要性を強く訴えてたとのことです。
帝国劇場は川上貞奴の確かな先を見る目の産物であることを改めて知りました。
aokijuku at 00:03│コメント(0)│