2010年12月04日

「R&D を支えたもの」

北はバンクーバーに繋がる高速道路(I―5)の西側に広がる坂の一角に、アパートはあった。窓から2ブロック先にはユニオン湖が見え、手前の岸には、北欧出身者が多く住む水上生活者の住宅が、湖に張り出している。湖を隔てたハーフマイル先には対岸の家並みがぼんやりと望める。ホリディシーズンには、光に彩られたヨットや小船が、いつもは静かな湖上にクリスマスソングを響かせながら行き来する。1階には、Studioが一つ、2階には、ワンベッドルームの部屋が四つ、それにペントハウスが3階にあった。
創業者が共鳴するアイデアを持つ発明家に、革命的な機械を生み出してもらうにはどうすればいいか?日本には行きたくないという彼に、本土で日本に一番近いシアトルで開発すると言うのが、双方の合意だった。具体的なアイデアを持っていたとしても、硬度や構造の計算、それに試作機の製作など、技術者や作業者の支援なくしては、発明品を生み出すことはできない。それらの作業に、日本から従業員を派遣しようというのが創業者の考えだった。
当時のアメリカは、まだ憧れの存在であったので、人を送り込むには不自由しなかったが、発明家の個性の強さを理解していた故、若手を出張の形で派遣した。1年未満の短期であれば、多少の問題には耐えられる。「文句を言わず、ひたすらに言われたことをやれ!」それが、創業者の願いだった。それでも心配で、毎年渡米した。発明家のアイデアを聞き、進捗状況を確認、方向性を指示する。加えて、出張者の意見に耳を傾け、彼らの不満を抑える。今考えてみれば、その時(1972年頃)の創業者の年齢は50代後半であった。
出張者を泊めるためにアパートを購入した。当時、ボーイングは不振で、シアトルの街は不況の中にあり、それ故に安かった。1ベッドルームの部屋に二人。ベッドルームとリビングルームに、一つずつベッドが置かれた。毎日、残業続きで遅くなるであろう出張者が、街中のレストランで、不規則な食事をしたのでは、体を壊すのに違いないと心配をした。このため、駐在員の妻に出張者の食事を作らせたのである。朝と晩、週5日、土日は休みであるが、毎日違う献立。関東・東北出身者が多いので、味を合わせるのが大変だったと、後で神戸出身の奥さんに聞いた。
創業者がそのアイデアに驚いた機械の設計は約1年で完了し、その量産化対応で殆どの技術者が帰国した。今までには無い省力型の機械は、一台1千万円以上であったにもかかわらず、爆発的な売上を記録、会社は大いに発展した。現在でもなお、年商2,000億円の企業の主力商品であることは、今振り返っても驚きである。
私の赴任は、その機械の開発完了直後の1973年であった。その後も、会社は更なる新製品の開発を目指したが、発明家が肺癌によって退社することを契機にR&D部門を閉鎖。会社をロスアンゼルスへ移した。1975年4月になっていた。この会社で開発された機械を日本から輸入、北米全体で販売しようとしたのである。ロスアンゼルスには、日系人や日本人の大きなコミュニティーがあり、当時から日系銀行も何社も進出していた。


aokijuku at 00:05│コメント(0)

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