2010年05月27日
【青木塾便り】No.50「誰もやったことのないことへの挑戦」
中央公論新社の「孫の力」島泰三著が話題になっていますが島さんが言っています「わが師の絶対唯一の評価基準は「誰もやったことのない観察」でこれこそが、発表するに足る科学論文の価値基準だった」と。
4月21日IOC前会長のサマランチさんが心臓疾患のためスペインバルセロナでなくなったと報道されました。五輪の商業化とプロ化を推し進めたとあり賛否両論ありましたが1984年のロスアンゼルスオリンピックの時筆者は当地に住んでいましたので、そのときの思い出をご紹介させてください。
サマランチが1980年の会長就任時、オリンピックは存亡の危機にありました。何しろ76年モントリオールオリンピックが巨額の赤字で大きな問題になって招致に立候補する都市がありませんでした。そのようなときに84年ロスアンゼルオリンピックがありました。ユベロス組織委会長がこの窮地を救いました。一業種一社に限定する協催金が黒字を生み出すことに気づき、商業主義へと舵を切ったのですがサマランチとユベロスとのコラボレーションが見事に花咲きました。
ロスアンゼルスのハイウエイを走っていると標識が出て来て次を降りると南カリフォルニア大学の確かレスリング会場になるとありましたが、オリンピックが終わるとその標識まで売りに出された時はただただ驚きでした。人気会場のチケットを購入するためには抽選があるのですが、そのために前金を払って申し込んで、外れたらお金を戻すシステムも考えました。金利を稼ぐための工夫です。
オリンピックを金のなる木に変えたことでオリンピックの理想をゆがませてしまったとの批判もありますがこの時をきっかけにオリンピック招致熱が高まったことは、確かに両人のコラボのおかげです。
初めて気がつくことがこんなにも大切なことを学びました。
4月21日IOC前会長のサマランチさんが心臓疾患のためスペインバルセロナでなくなったと報道されました。五輪の商業化とプロ化を推し進めたとあり賛否両論ありましたが1984年のロスアンゼルスオリンピックの時筆者は当地に住んでいましたので、そのときの思い出をご紹介させてください。
サマランチが1980年の会長就任時、オリンピックは存亡の危機にありました。何しろ76年モントリオールオリンピックが巨額の赤字で大きな問題になって招致に立候補する都市がありませんでした。そのようなときに84年ロスアンゼルオリンピックがありました。ユベロス組織委会長がこの窮地を救いました。一業種一社に限定する協催金が黒字を生み出すことに気づき、商業主義へと舵を切ったのですがサマランチとユベロスとのコラボレーションが見事に花咲きました。
ロスアンゼルスのハイウエイを走っていると標識が出て来て次を降りると南カリフォルニア大学の確かレスリング会場になるとありましたが、オリンピックが終わるとその標識まで売りに出された時はただただ驚きでした。人気会場のチケットを購入するためには抽選があるのですが、そのために前金を払って申し込んで、外れたらお金を戻すシステムも考えました。金利を稼ぐための工夫です。
オリンピックを金のなる木に変えたことでオリンピックの理想をゆがませてしまったとの批判もありますがこの時をきっかけにオリンピック招致熱が高まったことは、確かに両人のコラボのおかげです。
初めて気がつくことがこんなにも大切なことを学びました。
kiyoshi_kawabe at 00:00│コメント(0)│