2010年10月

2010年10月21日

【青木塾便り】No.71「背番号1の打撃論」若松勉著

 ベースボールマガジン社新書の上記本を読んでいましたらアメリカでのヤクルトスワローズ若松選手との出会いが思い出されました。
もう30年近く前になりますか、当時ヤクルトスワローズはキャンプ地はアメリカアリゾナ州のユマ(LAから400キロ東南)で行われていました。ユマはアリゾナ州ですが、カリフォルニア州とメキシコとの境にあって冬も暖かいところでキャンプ地にはもってこいでした、まわりには何もありませんが。
 冬休みに車でラスベガス、フーバーダム、ユタを回る計画を立てました。勿論ユタはヤクルトスワローズがキャンプをはっていることを知っていました。
 泊まるホテルも選手と同じところです。ホテルのチェックインもそこそこに野球場の場所をしっかり確認して急いで出かけました。そろそろ球音が聞こえてきてもいいのに何も聞こえません。休憩時間かなと最後のコーナーを回って野球場全体が見えるところに来ましたら誰もいません。その日はお休みの日で皆さんゴルフに行っていたようです。
 ホテルに帰って選手の戻るのを待ちました。夕方リーディングヒッターをすでに二回取ってまさに円熟期の若松選手らが戻ってきました。早速子供たちがサインを求めましたら気さくに応じてくれてどこから来たの、わざわざ来てくれてありがとうと気持ちよく応対してくれました。子供の心にスーッと入っていくところ大したものと感じました。
 荒木大輔投手ら多数の投手が食後タオルを持ってのシャドウピッチングをモクモクとしている様子が今もはっきりと脳裏に焼きついています。


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2010年10月20日

横浜丘のうえ美術舘;夢を実現した人

012画家、宮崎末子氏に始めてお会いしたのは1994年、今から16年前であった。銀座のセントラルアネツクスといえば最大の広さを誇る画廊スペースでありそのスペースを使いワンマンショウが出来る人などめったにいないはずであった。
 そこで彼女と出会ったのだがそのスケールの大きな展覧会に度肝をぬかれた。
密度の高い大作が何点も展示され私は宇宙のなかにすっぽりつつまれたような気持ちよさとブルーカラーに魅了された。
 当の画家である宮崎さんは小柄な女性であったが静かななかに燃えるような情熱を持った人だと思った。その後、そのスケールの展覧会を3回つずけたあと自分でトラックを運転して故郷である唐津や石橋美術舘、佐賀市立文化会館などで開催されるご自身の展覧会のため自ら作品を運んだという。

 最近、久しぶりにお会いしたのだが20年かけて夢であった個人美術舘を2007年に開館されたという。「美術表現を通じて芸術文化を地域社会や故郷に紹介したい」との趣旨である。また高等学校での教育にも携わり生徒達との交流のなかから彼女独自の世界感を盛り込むなどユニークな指導で人気があるにちがいない。
013014

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2010年10月19日

【Form America】「ルート66」

66アメリカのウインドゲイト緑です。

最近 カリフォルニア州のパーム・スプリングスへ旅行する機会がありました。ラスベガスからは4時間半くらいで行かれる場所ですから、高速道路を通れば大した距離ではありません。しかし、急ぐ旅でもないから、のんびりと途中でルート66を使って行ってみましょう、ということになり、時間をかけてパーム・スプリングスへ向けて出発しました。

最初は高速道を使っていましたが、いざルート66に入ると全く車がいません。まあ、昔の人はこの道を長い時間をかけて行き来していたのだなあ、と思うと感慨深いものがありました。ルート66を題材にしたいろいろな映画で観たシーンや音楽が頭の中で甦ってきます。

ルート66は今でもアメリカ人の心に残る大陸横断国道ですが、その起源は1926年です。イリノイ州のシカゴからカリフォルニア州のサンタモニカまでをつなぐ全長2,347マイル(3,755キロ)で、US.Route66「国道66号線」と呼ばれていました。アメリカの発展に大いに貢献した国道でしたが、その後、州をつなぐ高速道路が出来て、大勢の人に惜しまれながらも1985年に「廃線」となりました。従って、今回通った道のことを正式には「旧国道66号線」Historic Route 66と呼んでいます。ルート66にまつわる音楽や映画は数多く、アメリカ人にとってとても思い出のある道です。

さて、このルート66を日本で例えるとどんな道に当たるかなあ? と考えた時に思いついたのが「東海道五十三次」です。東海道の53箇所の宿場はそれぞれ美しい景色もあり、たくさんの浮世絵や和歌、俳句などの題材にもなっています。アメリカのルート66と東海道五十三次を似ているとはいうのは少々奇抜な例え方かも知れませんが、人々の心に残る「道」という意味では、共通点があるのではないでしょうか? アメリカの歴史がお好きな方には、興味のある道でしょう。このヒストリック・ルート66、一度は通っていただきたい道ですね。

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2010年10月18日

【明日の世界】その42「劇団四季」

最近大井町駅に新しい流れが出来たと言われます。劇団四季の新劇場が近くに出来たためです。JRの敷地内に立てたので経費節減になっているようです。JRとのコラボレイションも見事な戦略ですね。
劇団四季の主役を30数年勤められた青山明さんのお話を聞きました。
 初めに私の人生は全て「ついていた」と言われたのが印象的でした。いろいろ苦労があったでしょうがそれを全て前向きにとらえて来たことが素晴らしいですね。
 彼の話の持って行き方が参考になりました。青山明を知っている方手を上げてくださいと言ったところ120人ほどの会場で4〜5人ほどでした。劇団四季を知っている人はほぼ全員でした。
 劇団四季の前のミュージカル例えば東宝ミュージカルは森繁、高島忠夫、三人娘等主役の名前で売っていました。主役が倒れると演出不可能になります、ところが青山明をこのように知らないと仮に病気で出られなくても支障はきたしません。それと顔が知られていることは結構大変です。どこへ行ってもサインを求められたり、指を指されたり個人の自由はなくなります。これ想像以上に大変のようです。
 27歳で劇団四季に入りましたが、大学卒業しても食っていけませんでしたのでとりあえずアメリカに行って勉強してみようと決心しました。NYのブロードウエイには何回も通いました。バスで大陸横断もしました、LAでダンスの特訓も受けました。そこで何を得たかと言いますと「自分に足りないものが分かった」これが貴重な経験だったとのことです。
 劇団四季に入った当初は主役と言えども切符を売らなければなりませんでした。楽屋の裏に何枚切符売ったかの張り紙があり、青山さんはいつも売り上げトップでした。飲み屋に行っても必ず切符を売るべく、ママさんらに声をかけたそうです。いくら演技がうまくても切符売らないと首になりました。今はなかなか切符が手に入らない状態でなんと時代が変ったのか、これも先を読む目を浅利慶太が持っていたからだとのことでした。


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2010年10月17日

「He is crazy!」

「He is crazy!」
金曜日の昼に食べ放題になるシェーキーズでピザをほお張りながら、トムは、デニーをそう評しました。「クレージー?」半年前にアメリカに来たばかりの我が身にとって、クレージーとは、今は差別用語になった「気違いである」と同義語でした。「デニーは気が狂っているのか?」一瞬、訳が判らなくなったのです。そう言えば、いやにどうでもいいことにこだわるタイプの人間であることは確かだ。日本から来た技術者が、一人残らず「デニーは困ったものだ。」と悪口みたいな泣き言を言うのを耳にするにつけ、「気違い」であるという評価も間違いがないかもしれないと思いました。
デニーとは、特許がはるか前に切れたにも拘らず、今も主力商品で有り続ける画期的な商品を開発した、以前勤めていた会社で最大の功労者と言ってもいいくらいの、イギリス系アメリカ人の現地法人社長でした。現地法人と言っても、当時は従業員数10数人しかいませんでしたが、今でも珍しい商品開発だけのために設立されたR&D専門会社でした。
私が派遣される2年ほど前に、ニューヨーク州のバッハロー郊外にあった工場の片隅で、日本から技術導入の打合せに来た創業社長に、「おれのアイデアを聞いてほしい!」と、アプローチしてきたのが、このデニーだったのです。そこの会社では、技術顧問の肩書きであったのですが、誰も自分のアイデアを見向きもしないので、そのアイデアを実現してくれるかも知れないと、初対面の東洋人に話を切り出したのです。
「動物的カンがある。」と評された創業者は、何の実績も、評判もないデニーのアイデアを聞くと、直ぐにそのアイデアが世間の常識を覆すものであることと理解したようです。嫌がる本社での開発の代わりに、幾らかでも日本に近いシアトルに、設計や試作のための開発拠点を設けたのでした。
私が赴任したときには、当初の画期的なアイデアに基づく機械の開発が終わり、次の商品に取り掛かっていました。画期的な機械は、日本で様々な改良を加えたせいもあり、市場に大きな反響を呼び、それこそ爆発的に売れ出していました。そんなこともあり、次なる商品の開発にも期待がかかっていたのです、とは言え、アイデアは、長い睡眠時間が必要なようです。デニーにとって、今までの得意分野と違ってもいたこともあるのでしょう。アイデアとしては面白いが、まるで物にならない、商品にならないものばかりが出てきました。「それから、それへと出る訳ないよ。素晴らしいアイデアなんて一生にひとつあればいいよ。」それが一般的従業員の評価でした。
そんな中で、機械の組立工として、デニーと一緒に転職してきたトムは、自分を小僧のように扱うデニーを畏怖していたと同時に、発明家としてのデニーを尊敬もしていたのです。シェーキーズでの話は、如何にデニーが人と違っているのか、自分の道をそれこそ他人を構わずに、歩んでいるかということだったのです。「人と違っているんだ。変わっているんだ。そのために、大発明をしたんだ。」それが彼の言いたいことだったのです。


aokijuku at 00:05|この記事のみを表示コメント(0)
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