2010年06月
2010年06月20日
立てて保存
忘れがちなのは、野菜は収穫後も成長しているということのようです。寝かされたアスパラガスやシュンギクは地面から離れようとして植物ホルモンのエチレンが増加し、穂先や葉先が上に向かって曲がり始めます。この時のエネルギーは蓄えていた糖を使うので栄養価も低下してゆくことになります。
トウモロコシも立てて保存がよいようで、茎采類や葉采類ではないきゅうりやなす・ピーマンは横にして保存でも問題無いようです。
2010年06月19日
お揃い事件
一卵性の美人さんで、お母様でも見分けがつかないくらいそっくりです。
そんな双子の妹さんの乳前歯の後ろに永久歯が生えてきてしまい、歯並びを整えるために乳歯を2本抜くことになりました。
歯科医院の雰囲気にはもう慣れていますが、麻酔の注射は大の苦手です
おお泣きする妹の姿を緊張した表情で見守っていたお姉ちゃん。
大騒ぎの末、やっと2本の乳歯を抜くことができました。
妹さんの止血確認をしている間に、双子のお姉ちゃんが突然こちらを向きました。
きっと、妹さんの姿を見て
”私は抜きたくないです!抜かないでください!”
と言いだすのかと思いきや、何と、
“先生〜、お願いです。私の歯も2本抜いてください!お願いです”
私達はすっかり面喰ってしまいました
妹さんは永久歯との歯並びの関係でどうしても抜歯が必要だったのに、お姉ちゃんはまだ大丈夫そうです。
お母様にその旨を伝えると、意外なお答が!
“あの2人はいつもお揃いでないと気が済まないんですよね〜。洋服や文房具もぜーんぶお揃い。歯もお揃いがいいのよね、きっと。仕方ないから抜いてやってください”
確かに、双子ちゃんが同じような行動をするというのは良くあるようですし、持ち物も同じものを欲しがるというのは良く聞きます。
どうしても歯まで“お揃い”にしたいとは…
仕方がないので、レントゲン写真でお姉ちゃんの永久歯の位置を確認した後、2本抜歯することにしました。
お姉ちゃんは妹さんと同様に麻酔の際はやはりおお泣きして大騒ぎです。そんなに怖い思いをしてまでお揃いにこだわるなんて驚きです!
抜歯の後、2人は、お揃いの歯欠けの顔を見合わせて満足気ににっこり
私達は2人のお顔の区別がつかないので、乳歯の生え方で区別していたのですが、2人共同じ歯欠けとなると、全く判別不可能です。
翌週の消毒の際には当然ながら○○ちゃんと●●ちゃんの区別はつかず、
“先生、私●●よ!”“私が○○よ!”
と、こちらが教えてもらう始末です
それにしましても、2人とも大変な美女になることは間違いなく、歯もしっかりケアさせていただきいと思っております
2010年06月18日
明治神宮−その1
この日は半袖でも暑いくらいでしたが、木陰に入るとそよ風が心地よく、最高のお天気でした
この日の目的は2つ。
菖蒲を見ること パワースポットへ行くこと
ということで、まずは、参拝をしに本堂へ。
土曜日ということもあり、今日は”婚礼の儀”が次々と行われていて、私の目の前を通り過ぎます
1年半ほど前に明治神宮で挙式をした自分と重ね合わせながら、何組か花嫁さんを見てから、いよいよ菖蒲田へ。
ご覧ください。こんなにキレイに咲いてましたよ
ここは、江戸時代初期以来、加藤家・井伊家の下屋敷の庭園だったのが、明治時代に宮内省の所轄となり、代々木御苑と称されて、明治天皇、昭憲皇太后がたびたびお出ましになられたゆかりの深い名苑だそうです。
若い人からお年寄りの方までたくさんの人がいましたが、みなさん、絵を描いたり、写真を撮ったり、お弁当を食べたりしながら、菖蒲とともに楽しいひと時を過ごしていました。
そして、いよいよ次は、今日のメインイベントのパワースポットへ
次回へ続く
2010年06月17日
【青木塾便り】No.53 「プロゴルファー、エミー・アルコット」
さて当日彼女は3ホールを4人で回り。次の3ホールは又別の人と回って合計18人を相手にすることになります。つまり接待された人は18人になります。
私はいつも早打ちになる傾向が強く、当日も彼女から「ステイロング」と言われました。つまり頭を残してゆっくりスイングしなさいなるアドバイスです。さてここからです。3ホール一緒に回ったので、彼女は残って次の組を待って、我々3人は次のホールに向かいました。彼女がいなくなった次のホールでスイングした時、遠くから彼女が「ステイロング」と言うではないですか。お役目終わったのでもう私のスイングを見る義務は無いのですがちゃんと遠くから見てくれていました。その瞬間彼女のハートフルな感性にしびれました、ゴルフが終わって彼女を囲んで皆で食事をしているとき驚いたことに私が感じたことを参加者全員が同じ思いを持ったことが分かりました。一流スポーツ選手はゴルフがうまいだけではないことを改めて知った有意義な日でした。
2010年06月16日
ブブノワさんのこと
妹、小野アンナの招きにより日本に
私の画廊でワルワーラ、ブブノワ作品展というのを1987年に開催している。小冊子もつくりこの中でブブノワさんゆかりの方たちに思い出を語っていただいている。現在は筑波大学教授であられる五十殿 利治氏が彼女の年譜を書いてくださっているので彼女の足跡を知ることができる。
1886年5月にペテルブルグ「現レニングラード」に生まれる。父は海軍軍人の家庭出身であり母は詩人プーシキンと親交のあったことで有名なベルノーヴォ村に領地をもつ地主であり貴族であった。
1898年ニペテルブルグ帝室美術アカデミーに入学
1914年、父急逝、ペテルブルグ市立労働学校の絵画教師となる。
1918年 銅版画,石版画の制作を始める。妹アンナが日本人留学生小野俊一と結婚し日本に去る。「アンナは日本でバイオリンを教え彼女の元から優秀なバイオリニストが輩出している」
1922年妹アンナの招きにより母とともにモスクワを離れ、3カ月かかって横浜に到着する。
ロシアにいるときから日本の二科展などにも出品、東京に住むようになってからも様々な絵画展に出品、村山知義や棟方志功などとは美術を通じて親交厚く交流していた。1927年にはソ連領事館勤務の同国人であるゴローフシチコフと結婚、早稲田大学や東京外語大学でロシア語の講師を勤めた。彼女は丁寧な授業をして生徒を愛し、生徒にとても慕われたが大学を退任するまで講師であったという。1940年に母を、1947年には夫をなくしている。1933年に建築家ノブルーノ、タウトが来日,親交をむすぶ。「タウトは桂離宮を世界に最も美しい建築と紹介したことでも有名である。」
1958年1月に「画業50年記念版画展」を日本橋白木屋で開き、この年
7月日本からソ連に帰国、グルジアのスフミ市に住む。妹アンナも帰国し,ともに住む。1979年アンナ死去、ブブノワは1983年に永眠した。
アーテイストのパトロン的存在であった人 との出会い
美術評論家でありアーテイストのパトロン的存在であった久保貞次郎氏はのちに跡見女子短大の学長になられたが何人ものアーテイストは久保氏によって世にでられたと私は思う。池田満寿夫、瑛九、AI-O, 北川民治、オノサトトシノブ、そのほかにも名前はそんなに知られなくても久保氏の恩恵を受けた人たちは数多くいるはずである。
ブブノワさんも軽井沢での久保氏との出会いから親しく交わりをもち久保氏はブブノワの版画の最も良き理解者でもあった。
久保氏は無名時代のアーテイストたちの作品を購入し、人々に紹介し小コレクター運動を提唱されていた。主にその中心になったのは学校の教師たちであったから理解するのも早く興味を持つ人たちの輪がひろがっていつた。久保氏は戦後の美術界にあってとても重要な役割を担ったひとではなかっただろうか。
この小コレクター運動のことをいつかまた書く機会があればと思う。