2010年06月
2010年06月25日
明治神宮-その2
12時過ぎに明治神宮に到着。
いよいよ楽しみにしていたパワースポット・・・・・・・『清正井へ』
皆さんご存知のとおり、いまや平日でも行列するこの場所。
入園するためには、整理券が必要ということで、お昼に着いて、早速駆けつけましたが・・・、すでに15時入場のチケットでした
とりあえず、3時間ほど時間があるので、お昼を食べて、苑内を周って時間をつぶし、いよいよご対面
そもそも水に深く関係している場所は、地球のエネルギーが集積しているポイントといわれ、穏やかさや癒しを体感できるパワースポットといわれています。
都内では、この「清正井」がかなり強力だそうです。
水は冷たくて、今でも湧き出ているというのがすごいなぁ〜と思いましたが、透き通ってキラキラしている水にどこか神秘的なものを感じました。
清正井は、枯渇の心配がなく、水質、その由来、景観などに優れているとして「東京の名湧水57選」にも選ばれているようですが、O-157があってからは、飲むことができなくなったと聞き、ちょっと残念
携帯の待受画面にすると運気が上がるということで私も早速、変えてみました
いいことあるといいなぁ〜
いよいよ楽しみにしていたパワースポット・・・・・・・『清正井へ』
皆さんご存知のとおり、いまや平日でも行列するこの場所。
入園するためには、整理券が必要ということで、お昼に着いて、早速駆けつけましたが・・・、すでに15時入場のチケットでした
とりあえず、3時間ほど時間があるので、お昼を食べて、苑内を周って時間をつぶし、いよいよご対面
そもそも水に深く関係している場所は、地球のエネルギーが集積しているポイントといわれ、穏やかさや癒しを体感できるパワースポットといわれています。
都内では、この「清正井」がかなり強力だそうです。
水は冷たくて、今でも湧き出ているというのがすごいなぁ〜と思いましたが、透き通ってキラキラしている水にどこか神秘的なものを感じました。
清正井は、枯渇の心配がなく、水質、その由来、景観などに優れているとして「東京の名湧水57選」にも選ばれているようですが、O-157があってからは、飲むことができなくなったと聞き、ちょっと残念
携帯の待受画面にすると運気が上がるということで私も早速、変えてみました
いいことあるといいなぁ〜
2010年06月24日
【青木塾便り】No.54 「リーバイス」
ジーパンのリーバイスは高級品としてのブランドを維持しているようですが、昨今ユニクロ、その他安いジーパンが出回っていったいどこまで安値競争が続くのかと思ってしまいます。
筆者は仕事でサンフランシスコにあるリーバイス本社を何回も訪問したので今回この会社の成り立ちについて述べます。
アメリカに人気フットボールチーム49ERSがありますがアメリカに行った時そのいわれを知りませんでした。聞けばゴールドラッシュラッシュがカリフォルニアの首都サクラメントの奥地で始まったのが1849年とのことです。東海岸でゴールドラッシュの噂を聞いて一攫千金を夢見る人たちが西海岸のサクラメントの奥地を目指すには三つのコースありました。一つは馬車で陸地をひたすら東に向かうコース、途中デスバレーがあってここが難所ででしたのでデスの名前が付いているそうです。二つ目がパナマ海峡まで船で行って、そこで陸地をわたって太平洋側に出て又船に乗ってサンフランシスコまで北上しました。三つ目が南アメリカの最南端のフェゴ島を通るコースです。どのコースも死と隣り合わせです。
幸い苦難を乗り越えてサクラメントの奥地にたどり着いて金の採掘に成功した人も多数いたことでしょう。
しかしこのゴールドラッシュで一番儲けたのはズバリ「リーバイス」です。当時の会社で今日まで残っているのは「リーバイス」のみです。金の採掘時に丈夫なズボンを開発したリーバイスのみが生き残る、歴史の現実は実に厳しいですね。金で儲けた人は多数いたでしょうが、アメフトのチーム名で残るのが精一杯でしょうか。
ジョン万次郎も帰国する日を夢見てこの地区で働いて旅費を稼いだといわれます。
会津出身の早乙女貢が小説「おけい」で描いていますが戊辰戦争後数百人の会津藩士がアメリカ西海岸に逃れました。その中に桶屋の娘おけいがいました。彼女はサクラメントまで行ってそこに居住するのですが結局うまく行きませんでした。筆者はロスアンゼルスにいるとき夏休みにサクラメントの奥地ゴールドラッシュのあった川に行き、また会津藩の移住者が居ついた場所まで行ってみました。立看板があって、ここに会津から来た人がお茶と桑の生産に努力するが土地が合わないこともあって成功しなかったなる看板がありましたが。150年前にここに日本人が苦労しながら住みつこうとしたのだと歴史の重みを感じました。
筆者は仕事でサンフランシスコにあるリーバイス本社を何回も訪問したので今回この会社の成り立ちについて述べます。
アメリカに人気フットボールチーム49ERSがありますがアメリカに行った時そのいわれを知りませんでした。聞けばゴールドラッシュラッシュがカリフォルニアの首都サクラメントの奥地で始まったのが1849年とのことです。東海岸でゴールドラッシュの噂を聞いて一攫千金を夢見る人たちが西海岸のサクラメントの奥地を目指すには三つのコースありました。一つは馬車で陸地をひたすら東に向かうコース、途中デスバレーがあってここが難所ででしたのでデスの名前が付いているそうです。二つ目がパナマ海峡まで船で行って、そこで陸地をわたって太平洋側に出て又船に乗ってサンフランシスコまで北上しました。三つ目が南アメリカの最南端のフェゴ島を通るコースです。どのコースも死と隣り合わせです。
幸い苦難を乗り越えてサクラメントの奥地にたどり着いて金の採掘に成功した人も多数いたことでしょう。
しかしこのゴールドラッシュで一番儲けたのはズバリ「リーバイス」です。当時の会社で今日まで残っているのは「リーバイス」のみです。金の採掘時に丈夫なズボンを開発したリーバイスのみが生き残る、歴史の現実は実に厳しいですね。金で儲けた人は多数いたでしょうが、アメフトのチーム名で残るのが精一杯でしょうか。
ジョン万次郎も帰国する日を夢見てこの地区で働いて旅費を稼いだといわれます。
会津出身の早乙女貢が小説「おけい」で描いていますが戊辰戦争後数百人の会津藩士がアメリカ西海岸に逃れました。その中に桶屋の娘おけいがいました。彼女はサクラメントまで行ってそこに居住するのですが結局うまく行きませんでした。筆者はロスアンゼルスにいるとき夏休みにサクラメントの奥地ゴールドラッシュのあった川に行き、また会津藩の移住者が居ついた場所まで行ってみました。立看板があって、ここに会津から来た人がお茶と桑の生産に努力するが土地が合わないこともあって成功しなかったなる看板がありましたが。150年前にここに日本人が苦労しながら住みつこうとしたのだと歴史の重みを感じました。
2010年06月23日
草間弥生のこと
草間弥生 ;宇宙へのいざない
草間弥生は1929年に長野県の松本市に生まれた.年譜を見てみると1935年に小学校に入学、このごろから物のまわりにオーラが見え植物や動物の話す言葉が聞こえるという幻覚を体験するようになる。幻覚、恐れや不安感を絵に描きはじめるようになったと。
10歳のとき描いた鉛筆による素描は不思議な作品である。髪から顔、首から着物まで水玉におおわれているのである。子供の稚拙さや素朴さはここにはなく憂いに満ちた女性の顔に水玉を施す。後に成人して才能が開花してからも作品の歩みに彼女の特徴として水玉が現れている。
ニューヨークでの成功、そして帰国
1957年に渡米し短期間でニューヨークの美術界に認められ独自の地位を築いた。ニューヨークでの草間はスキャンダラスなパフォーマンスを展開、しかし話題性をふりまきながら日本という狭い枠を乗り越えて数々の個展を契機にアーテイストとして国際的な評価を得てきた。
1975年に帰国してからは日本を拠点にインターナシオナルに精力的に世界に発信しつずけ今や世界の美術界に誰知らぬものもいない世界の草間となった。草間の作品は油彩やオブジエ、版画も含め多彩であるがあらゆるジャンルにわたり作品からかもし出される鮮烈な印象は全くオリジナルなものであり、現代の若者達をも魅了しつずけている。
草間弥生の版画
草間の制作した版画はリトグラフ、シルクスクリーン、銅版がある。版画は複数芸術だから安価でもありコレクターにとって垂涎の的である。作家が楽しんで制作することもあってかなり自由に制作しているのでカラフルであり魅力的である。それぞれの細かな技法の説明は避けるがシルクスクリーンは油彩なりアクリル画なりの原画があって、その原画作品から写真製版して制作したものであるからオリジナル版画とは一線を画される。
その点、リトグラフと銅版は作者が直接プレートの上に描いているのでオリジナル版画である。しかし近年は表現の方法が様々で自由であるためゼロツクスコピーしたものがそのまま作品になったりパソコンのプリンターから印刷したものも作品として発表したりとさまざまである。
テーマはかぼちゃ、帽子、靴、蝶、かたつむり、たつのおとしご、葡萄、魚であったりひと目で草間作品だとわかる。背景には主にネットがありネツトと水玉が彼女の作品の特徴でもある。かぼちゃをテーマにかなり作品があるが黄色いかぼちゃ、赤いかぼちゃ、ダンスかぼちゃまであり何とも愛らしい。
宇宙へのいざない 草間弥生版画展
2010年6月21日―30日
秀友画廊;東京都中央区銀座7−8−1、丸吉ビル6階
電話;03−3573−5335
草間弥生は1929年に長野県の松本市に生まれた.年譜を見てみると1935年に小学校に入学、このごろから物のまわりにオーラが見え植物や動物の話す言葉が聞こえるという幻覚を体験するようになる。幻覚、恐れや不安感を絵に描きはじめるようになったと。
10歳のとき描いた鉛筆による素描は不思議な作品である。髪から顔、首から着物まで水玉におおわれているのである。子供の稚拙さや素朴さはここにはなく憂いに満ちた女性の顔に水玉を施す。後に成人して才能が開花してからも作品の歩みに彼女の特徴として水玉が現れている。
ニューヨークでの成功、そして帰国
1957年に渡米し短期間でニューヨークの美術界に認められ独自の地位を築いた。ニューヨークでの草間はスキャンダラスなパフォーマンスを展開、しかし話題性をふりまきながら日本という狭い枠を乗り越えて数々の個展を契機にアーテイストとして国際的な評価を得てきた。
1975年に帰国してからは日本を拠点にインターナシオナルに精力的に世界に発信しつずけ今や世界の美術界に誰知らぬものもいない世界の草間となった。草間の作品は油彩やオブジエ、版画も含め多彩であるがあらゆるジャンルにわたり作品からかもし出される鮮烈な印象は全くオリジナルなものであり、現代の若者達をも魅了しつずけている。
草間弥生の版画
草間の制作した版画はリトグラフ、シルクスクリーン、銅版がある。版画は複数芸術だから安価でもありコレクターにとって垂涎の的である。作家が楽しんで制作することもあってかなり自由に制作しているのでカラフルであり魅力的である。それぞれの細かな技法の説明は避けるがシルクスクリーンは油彩なりアクリル画なりの原画があって、その原画作品から写真製版して制作したものであるからオリジナル版画とは一線を画される。
その点、リトグラフと銅版は作者が直接プレートの上に描いているのでオリジナル版画である。しかし近年は表現の方法が様々で自由であるためゼロツクスコピーしたものがそのまま作品になったりパソコンのプリンターから印刷したものも作品として発表したりとさまざまである。
テーマはかぼちゃ、帽子、靴、蝶、かたつむり、たつのおとしご、葡萄、魚であったりひと目で草間作品だとわかる。背景には主にネットがありネツトと水玉が彼女の作品の特徴でもある。かぼちゃをテーマにかなり作品があるが黄色いかぼちゃ、赤いかぼちゃ、ダンスかぼちゃまであり何とも愛らしい。
宇宙へのいざない 草間弥生版画展
2010年6月21日―30日
秀友画廊;東京都中央区銀座7−8−1、丸吉ビル6階
電話;03−3573−5335
2010年06月22日
【From America】「美味しい日本茶」
アメリカのウインドゲイト緑です。
健康志向が強くなったアメリカでは、「日本茶の効用」が話題になっています。
日本茶に含まれるカテキンが肺がん予防になる、というニュースは、日本人の皆さんにはもう新しいニュースではありませんね。
アメリカでは、日本茶の味を楽しむというよりは「健康に良いお茶」ということで日本茶を飲む人が増えていったように思います。従って、日本人が緑茶を味わう時の「香り」「色」「味」ということをあまり重要視していないようで、緑茶にレモンをいれたり、ブルーベリーのフレーバーを足したり、中には蜂蜜などを入れて甘くしたり、と日本人から見れば「邪道(?)」と思えるような飲み方も多々あります。しかし、日本茶人気が高まっていることは大いに歓迎するべきことですね。
私はアメリカでも「美味しいお茶が飲みたい」と思うのですが、実はどんなに品質の良い高額なお茶の葉を日本から持ち帰っても、どうしても私の期待するような日本で飲む日本茶の味になりません。先ず考えられるのは「お茶を美味しく入れるにはお湯の温度が大切」といわれていますから、温度がいけないのではないか? ということです。しかし、どんなにお湯の温度に気をつけてみても、やはり日本で飲むような美味しいお茶にはならないのです。
こうなると考えられるのは「水」です。
私の住んでいる地域の水は硬水です。水と一口に言っても 地域によって硬水や軟水と様々です。美味しいお茶を入れるには「宇治茶なら関西の水」「静岡茶なら関東の水」などといわれるほど、国内の水でさえもこだわり始めたらキリがありません。アメリカともなれば全く違う水ですから、美味しいお茶がいれられなくても当然なのかもしれません。
では、ボトルの水を使ったら少しは良いのではないか? これも試してみましたが、アメリカ国内の水(コロラド川の水など)やフランスからの水ではやはり結果は同じでした。勿論 私のお茶の入れ方が悪いということは充分考えられますので、もし、良い方法があればどうぞ教えてくださいね。
しかし、現在の私の結論は、美味しい日本茶をいれるのには「日本の水」ということに尽きるような気がします。そういえば、イギリスで美味しい! と思って持ち帰った紅茶の葉でしたが、日本で入れたらいまいち美味しくなかったことがありました。日本茶ばかりでなく、紅茶も現地の水でいれるのが一番美味しく飲むことが出来るのかもしれません。
日本の皆さん、毎日何気なく飲んでいる日本茶ですが、もっと味わって飲んでください。美味しい日本茶を味わうとき「日本人でよかった」と思うでしょう。
健康志向が強くなったアメリカでは、「日本茶の効用」が話題になっています。
日本茶に含まれるカテキンが肺がん予防になる、というニュースは、日本人の皆さんにはもう新しいニュースではありませんね。
アメリカでは、日本茶の味を楽しむというよりは「健康に良いお茶」ということで日本茶を飲む人が増えていったように思います。従って、日本人が緑茶を味わう時の「香り」「色」「味」ということをあまり重要視していないようで、緑茶にレモンをいれたり、ブルーベリーのフレーバーを足したり、中には蜂蜜などを入れて甘くしたり、と日本人から見れば「邪道(?)」と思えるような飲み方も多々あります。しかし、日本茶人気が高まっていることは大いに歓迎するべきことですね。
私はアメリカでも「美味しいお茶が飲みたい」と思うのですが、実はどんなに品質の良い高額なお茶の葉を日本から持ち帰っても、どうしても私の期待するような日本で飲む日本茶の味になりません。先ず考えられるのは「お茶を美味しく入れるにはお湯の温度が大切」といわれていますから、温度がいけないのではないか? ということです。しかし、どんなにお湯の温度に気をつけてみても、やはり日本で飲むような美味しいお茶にはならないのです。
こうなると考えられるのは「水」です。
私の住んでいる地域の水は硬水です。水と一口に言っても 地域によって硬水や軟水と様々です。美味しいお茶を入れるには「宇治茶なら関西の水」「静岡茶なら関東の水」などといわれるほど、国内の水でさえもこだわり始めたらキリがありません。アメリカともなれば全く違う水ですから、美味しいお茶がいれられなくても当然なのかもしれません。
では、ボトルの水を使ったら少しは良いのではないか? これも試してみましたが、アメリカ国内の水(コロラド川の水など)やフランスからの水ではやはり結果は同じでした。勿論 私のお茶の入れ方が悪いということは充分考えられますので、もし、良い方法があればどうぞ教えてくださいね。
しかし、現在の私の結論は、美味しい日本茶をいれるのには「日本の水」ということに尽きるような気がします。そういえば、イギリスで美味しい! と思って持ち帰った紅茶の葉でしたが、日本で入れたらいまいち美味しくなかったことがありました。日本茶ばかりでなく、紅茶も現地の水でいれるのが一番美味しく飲むことが出来るのかもしれません。
日本の皆さん、毎日何気なく飲んでいる日本茶ですが、もっと味わって飲んでください。美味しい日本茶を味わうとき「日本人でよかった」と思うでしょう。
2010年06月21日
【明日の世界】その25「劇団四季」
劇団四季で30年間主役を務めた青山明さんにお話を聞きました。「コーラスライン」のアル、「キャッツ」のスキンブル・シャンクス、「ライオンキング」のスカー等歌と踊りで主役を務めた方のエッセンスです。
劇団四季はCATS以前と以後で大きく違ってきたそうです。以前は手売と称して、芸団員全員で切符を売っていたのですが以後は「ぴあ」中心に販売は団員から手を離れました。劇団四季の人気が高まったことがその最大の理由かもしれません。今も団員が手売りしている劇団が沢山あります。
劇団四季は浅利慶太が慶應の学生で19歳の時に現在のある姿を夢見ていたそうです。その着想力、実行力は今までの日本人には無かった稀有の存在です。青山さんは芸大の声学科を出ておられますが、芸大卒業生でも理想とする働き場は皆無でほとんどの方は学校の先生になるようでした。卒業後アメリカに行
ってLAやNYで踊りや、ミュージカルを勉強してこんな素晴らしいエンターテインメントが日本にも出来ればよいなと思っていました。
帰国後27歳の時に劇団四季(出来て17年目)に入って以後30年間250回のステージを勤めました。
当時東宝ミュージカルがあって、スター中心で、江利チエミらが活躍していましたが、単発の興行でした。そのときに越路吹雪のワンマンショーを浅利慶太演出で当時のロングランの記録を作り今日の劇団四季の構想に自信を持ったとのことです。客を呼ぶことの大切さ、面白さ等ここから始まりました。
誰もやったことのないことへの挑戦はアイディア、企画力が求められますと語ってくださいました。
劇団四季はCATS以前と以後で大きく違ってきたそうです。以前は手売と称して、芸団員全員で切符を売っていたのですが以後は「ぴあ」中心に販売は団員から手を離れました。劇団四季の人気が高まったことがその最大の理由かもしれません。今も団員が手売りしている劇団が沢山あります。
劇団四季は浅利慶太が慶應の学生で19歳の時に現在のある姿を夢見ていたそうです。その着想力、実行力は今までの日本人には無かった稀有の存在です。青山さんは芸大の声学科を出ておられますが、芸大卒業生でも理想とする働き場は皆無でほとんどの方は学校の先生になるようでした。卒業後アメリカに行
ってLAやNYで踊りや、ミュージカルを勉強してこんな素晴らしいエンターテインメントが日本にも出来ればよいなと思っていました。
帰国後27歳の時に劇団四季(出来て17年目)に入って以後30年間250回のステージを勤めました。
当時東宝ミュージカルがあって、スター中心で、江利チエミらが活躍していましたが、単発の興行でした。そのときに越路吹雪のワンマンショーを浅利慶太演出で当時のロングランの記録を作り今日の劇団四季の構想に自信を持ったとのことです。客を呼ぶことの大切さ、面白さ等ここから始まりました。
誰もやったことのないことへの挑戦はアイディア、企画力が求められますと語ってくださいました。