2009年07月07日

【From America】故郷に錦を飾る

midori streetアメリカのウィンドゲイト緑です。アメリカのラスベガスから日本の皆様へ現地の新鮮な情報をお届けすることになりました。どうぞ宜しくお願い致します。

日本では昔から「故郷に錦を飾る」という言葉があって、田舎から都会へ出て成功した人が、故郷に帰って大勢の地元の人たちに大歓迎を受けるシーンを様々なところで見かけます。大志を抱いた若者は、いずれ自分もあのようになりたいと意気込んで都会へ出て行きます。地方の小さな町は「xxxさんはわが町の出身」と自慢に思うことでしょう。

さて、アメリカには「有名人の名前を通りの名前にする」という習慣があります。これは、日本の「故郷に錦を飾る」に当たる実に名誉な事とされています。ちなみに、ラスベガスには「フランク・シナトラ通り」「デイーン・マーテイン通り」ほか、たくさんの有名人の名前を付けた通りがあります。ニックネームではなく、ちゃんと地図に載っている正式名称です。芸能界の有名人だけではなく「マーテイン・ルーサー・キング通り」などもあります。また、アメリカの空港の名前には、NYのJFK空港(ジョン・F.ケネデイ大統領の名前を付けた空港)。アリゾナ州とネバダ州にまたがる大きなダムには「フーバー・ダム」(このプロジェクトを指揮した人で後の大統領)など、人名を付ける習慣があります。

通りに有名人の名前を付けるのはカナダでも行われているようですが、ヨーロッパ諸国ではどうなのでしょう? 私の記憶では、イギリスのとある空港の名前が「ジョン・レノン空港」と改名されたのは最近のことですね。しかし、日本にはそのような習慣がないので「オノ・ヨーコ空港」が誕生することはないでしょう。また地図に載るような住所表示で福沢諭吉通りや西郷隆盛坂というのを私は聞いたことがありません。日本にはそういう習慣がないということなのでしょう。しかし、お国や形は変わっても「故郷に錦を飾る」という願望は皆同じだと思います。

ここでちょっと笑ってしまうお話をひとつ。
友人がラスベガスのとある住宅街で通りの名前の写真を撮ってきてくれました。なんとその名も「みどりストリート」
まあ!どうして私の名前が通りの名前に???
みどりさんという名前の持ち主でアメリカ国内で有名なのは、バイオリニストの五嶋みどりさんとアイス・スケーターの伊藤みどりさん。その二人くらいしか名前が浮かびません。ウィンドゲイト緑であるはずはないし…。
良くよく考えてみたら、このなぞが解けました。ラスベガスは砂漠の真ん中に作られた人工の街です。水も緑も少ない場所だからでしょうか? 地名には「グリーン・バリー」「パセオ・ベルデ」など色の緑という言葉を使ったものが多いのです。草木の緑がもっと欲しいという願望から生まれた結果だと思います。どうやらこの「みどりストリート」は単に日本語の「緑色通り」という意味だけのような気がしてきました。
でも、つかの間の「故郷に錦を飾る」気分を味わうことが出来て、ちょっぴり嬉しかったです。

midori_windgate at 15:35|この記事のみを表示コメント(0)

【青木塾便り No.2】シリコンバレーに学ぶ…その1

YESから入れそれが仕事をする基本、人脈を広げるベースになると当時著名なVC(ベンチャーキャピタリスト)から教わりました。
もう30年以上前になりますか、山一證券LA時代まだVC、VB(ベンチャービジネス)の言葉がそう馴染みない頃、シリコンバレーの会社数が8,000社位でおよそ平均3年で会社を替わる時どうやって人脈を広げるか聞きましたら上記YESから入れと言われました。
難しい案件が来た時、これを日本の本社に伝えるべきかどうかさっぱり分からない時めんどくさいからNOと言えばそれですむがしかしそれ以上何も進まない。YESから入ったときさあこの案件どうするかここから脳がフル回転する…以下次号へ

kiyoshi_kawabe at 15:27|この記事のみを表示コメント(0)

【青木塾便り No.1】青木塾のウェブサイト、スタートです。

青木塾のウェブサイトが満を持していよいよ始まります。1994年にIPOしたジオマテック(旧松崎真空)の青木源四郎さんが中小企業の経営者から相談を受けてそのつど会談をしておりましたがある時からまとめて面倒見ようとなって二月に一回青木塾を開催して現在にいたっております。6月11日ホテル銀座ラフィーナにおいて第94回の青木塾が開催されましたが16年続いている集まりです。残念ながら塾長は2年前になくなりましたが現在はジュニアの青木敏郎さんがその後を継ぎ、さらに充実した会を続けています。河辺は山一証券時代からその世話役をしております。
ジオマテックのIPO時は売り上げ200億円、額面50円が12,500円で始まりました。その時来年度最も利益率が伸びる会社として注目されました。塾長は義兄が戦後まもなく小糸製作をやめて、日本光学のレンズやプリズムを磨いて細々やっているときどうすれば大きく伸びるかを考えました。複写機、トヨタ車のルームミラーそして液晶にと展開していきました。
       
これから青木塾ウェブサイトを通じて皆様と情報交換出来ますことを心から願っています。
どうぞよろしく御願い申し上げます。


kiyoshi_kawabe at 13:52|この記事のみを表示コメント(0)
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