青木叡介

2011年01月29日

「日本の工作機械業界の未来」

日本経済の低迷が言われて久しい。そんな中、日本経済新聞の特集「企業 強さの条件」(日本だからできる)の1月12日付け朝刊に、[ファナックの国産宣言]が載っている。「工作機械の頭脳となる数値制御装置で世界シェア6割を握るファナック。『利益は開発で決まり、製造段階では生まれない。』の発想のもと、日本で競合他社に負けない価格を算出し設計する。」その結果、「世界最大の工作機械生産国になった中国。最大手の瀋陽機床はNC装置の7割をファナックから購入する。『同じ性能なら世界2位のシーメンスより1割安い』と瀋陽機床の関係者は説明する。ファナックの海外売上高比率は75%を超えるが、円高の逆風下でも昨年7~9月期の売上高営業利益率が43.8%と過去最高を更新した。」続けて、「生産も国内に集中する。6月には茨城県筑西市に増築した新棟が完成し、工作機械の生産能力が今までより6割増える。」とある。
この記事を見て、去年の暮れに聞いた知人の話を思い出した。彼は招かれて上海地区の工作機械生産工場へ、生産技術の指導に出かけた。その工場は、今さえ良ければいいとの考え方のようで、将来に対する確とした指針がないと、彼は酷評していたが、そうであっても、生産台数の多さに驚いていた。日本製の同種の機械より遥かに安いと言う。かといって、品質が極端に劣っているわけではない。それが中国国内で大量に売れている理由だ。基幹部品の多くに日本製。それ以外のフレームなどは近辺で調達、安い人件費で組み立てる。日本製部品の使用で、精度は日本製の機械にかなり近づいている。ということは、日本製の使用により、原価も高くなるはずであるが、大量に購入で、日本の同業者より安く買えていると言う。こうなると、日本の同業者も太刀打ちできない。
パソコンやテレビなどでは、品質に大きな違いが無くなり、どこから購入しても大差ないコモディティー化が普通になってきた。日本のお家芸と言われた工作機械の業界においても、上記のファナックなどの基幹部品を供給する企業の生き残り策により、その傾向が進んでいるのは、大変皮肉である。工作機械の基幹部品は、数値制御装置だけではないが、嘗て日本の工作機械業界の躍進を支えたこれらの企業が、今度は中国など新興国の工業の高度化をサポートしている。ただ、より精度の高い工作機械も依然として必要とされているので、いまだ日本の工作機械も生き残っているが、これがどこまで進むのかと不安を覚えている業界人も多い。
一方、欧州の技術立国ドイツはどうしているのか?少し異なる業界で研究開発に従事する友人に聞いてみると、ドイツでは研究機関と企業のタイアップが旨くいって、先端的な研究を研究機関、その技術の応用が企業と、基礎から積み上げた技術を巧みに産業に活かしていると言う。そのせいであろうか、工作機械業界でも、ドイツの企業が独自性を発揮、存在感を増している。事実、不況の今の日本でも、販売量を着実に増やして、日本での現地生産拡大を図っているドイツ企業がある。彼は、将来を見据えた本格的な産業育成をしないと、日本の工作機械業界も生き残っていけないのではないかと、心配していた。


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2011年01月15日

「ちいさな桃源郷」

暮れから正月にかけて、今年もまた妻の実家の群馬県にいた。一人暮らしの義母は、80を過ぎても、野菜作りや山に近所の年寄りの世話など、今どきの中高年にも負けぬ体力で、あちこちと動き回っている。それでも、今年からは餅つきや手合わせを子供たちに任せた。とは言っても、もち米や黍、それに栃の実などすべて用意。カマドで薪をくべて炊き上げるまでの準備をしてのことだ。実家の町は、町村合併で隣村と一緒になり、町の中心を流れる神流川に因み神流町と変えた。家々は、山に囲まれた谷底を流れる川の縁の狭い傾斜地に、遠慮がちに立つ。そこここにある畑にはコンニャクや野菜などが栽培され、水田は無い。町役場や土建業、それに造園業などが主たる産業であり、嘗て1万人を超えた人口は、2,500人を割って、高齢化率は50%を超える。
ドイツ文学者の池内紀氏が編纂の本「ちいさな桃源郷」に、4、50年前のこの谷一帯は、取り残された桃源郷のように載っている。晴れた日には、山頂から遠くに富士山が望める赤久縄(アカグナ)、山腹にニッコウキスゲが群生する信仰の御荷鉾(ミカボ)、それに埼玉県との県境にある父不見(テテミエズ)など、1000メートル級の山々に囲まれている。山裾を流れる神流川では、春先から夏にかけて鮎釣りや鯉のぼり祭などに人影が増し、流域では山ツツジの赤や山フジの薄紫、それに山百合の白の花々が桃源郷の一端を覗かせる。ただ、風花が舞う寒さ厳しいこの季節は、人の少なさに寂寥感が募る。
取り立てて名所もない町で、たっぷりある時間過ごすのには、山歩きが最適である。今回は、斉藤佑樹選手の母方の祖父母がいるという集落に行く。暇な一日、全くの興味本位で1時間半の道のりを、神流川、その支流の川沿いを登っていく。支流域に入り、最初の集落で尋ねる。この辺では祖父母も有名人のようだ。そこから曲りくねった川沿いの急峻な山道を、30分ほど登る。あそこは山が深いからとの出発前の義母の言葉が思い起こされる。山に囲まれた小さな川沿いの平地や山裾に民家が点在。その中で、道に一番近い家で聞く。「斉藤佑樹さんのお爺さんのお家ですか?佑樹さんの幸運を分けて貰おうと思って伺ったんですよ。」
200メート先かと思われる川を隔てた丘にある2軒家の奥の家だとのこと。判らないといけないと、一緒に河川敷の道を歩いて案内してくれる。この集落は全て同じ苗字で、嘗て25世帯あった家が今や11世帯になった。佑樹選手も子供の頃に練習していたという、河原を整備したグラウンドの脇を通る。目的の家には誰もいる気配はない。戻ろうとした時、年配のご夫婦が運転する軽トラックが坂を上ってきた。佑樹選手にそっくりのすっきりした顔つき。佑樹選手の激励会の帰りだと言う。その昔は細い人道のため車が通れず、そのために分教場が近くにあったが、それでも中学になると1時間以上かけて、役場のそばの校舎まで歩いて通ったという。その中学での亡き義父の教え子だった。
谷は更に続いている。山に向かって、徒歩で更に1時間ほどの先に、別の集落もあるようだ。今度は、そこに行ってみよう。「ちいさな桃源郷」があるかも知れないと思った。


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2011年01月02日

「還暦パワーを活用するベンチャー企業」

2010年は、支援アドバイサーとして、研究者が設立したベンチャーの販売体制の確立に関与した。世界に誇れる技術も、リーマンショックの世間の荒波にもまれ、売りが低迷していた。アピール度を高めて、成長軌道に乗せ直すことができないか、そのためには、今までとは違ったやり方で販売体制を工夫して貰いたい、と言うのが要請の理由であった。
一年間の支援も終わりに近い11月の末に、設立10周年のパーティーが開かれた。席上、創設者である社長は、「我が社の社員構成は、二つのヤマがある。一つは35歳、もう一つは60歳を過ぎた所にある。35歳近辺の社員を、他の会社で定年を迎えた後の社員がサポートしている。」と自社の状況を説明した。その社長も、50ちょっと過ぎ、副社長は50前である。そんな経営陣に率いられた40人の会社は、研究者が設立した多くのベンチャーが、倒産か廃業に陥っている状況で、生き残っているまれな会社である。
確かに、訪問時の会議の議事録は、年金を受け取り始めた社員が取っている。また、会議でじっくり話を聞いている常任監査役は60代後半で、同業種の社長との研究仲間であった。それに、工場には、社長と同じ会社にいた先輩が、製造のコーディネーターとして勤務している。誰もが、住み慣れた都内近辺から、関東西部にある山間部のベンチャー企業に身を移してきた。単身生活者は勿論のこと、既に成人した子供に嘗ての住まいを譲り、夫婦で田園生活を楽しんでいる人もいる。
研究社の集団だけに、留学組や博士の称号を有するものも多く、大学との共同研究が常にあり、極めてアカデミックな雰囲気である。嘗て機械会社に勤めていたとは言え、社員同士の技術情報を、文系の私はほとんど理解することができない。そう言えば、嘗ての機械会社でも、自分に自信がある技術者は、自分の開発に絶大なる愛着を持ち、是非売ってくれとユーザーが頭を下げて当然との考え方をしていたことを思い出す。そんな個性派揃いの技術系の研究者がいて当然の会社には、業界通の経験豊富な60代が役に立つようだ。
そう思って見ると、社長の方針と社員の能力の間に立って、60代が調整役として機能しているのを目にする。販売会議の席上、常任監査役は私と出席者の間を通訳し、工場の進捗会議では、製造コーディネーターが製造担当者のそれぞれの言い分を振り分ける。20年前には社長の先輩か上司のような立場にあった60代の人たちは、そんな役割を楽しんでいる。そして、今の自分を生かしてくれることに感謝している。多くの退職者が、中国や韓国などの競合に呼ばれる中で、国内で一緒に働ける幸せを認識しているのである。
この幸せな環境を活用して、今までの支援の成果を次に繋いでいこう。そう思って、海外現法で社長を務めた2歳年上の友人を、販売支援サポート社員として紹介した。定年後の時間を、現役世代の教育に当ててもらう算段である。私の外部からのコンサルティングだけではなく、内部から変革してもらうためには、経験豊富なベテランの力が必要である。2011年は、我が分身のような嘗ての友と、ベンチャー企業の販売体制の構築をすることとなった。


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2010年12月04日

「R&D を支えたもの」

北はバンクーバーに繋がる高速道路(I―5)の西側に広がる坂の一角に、アパートはあった。窓から2ブロック先にはユニオン湖が見え、手前の岸には、北欧出身者が多く住む水上生活者の住宅が、湖に張り出している。湖を隔てたハーフマイル先には対岸の家並みがぼんやりと望める。ホリディシーズンには、光に彩られたヨットや小船が、いつもは静かな湖上にクリスマスソングを響かせながら行き来する。1階には、Studioが一つ、2階には、ワンベッドルームの部屋が四つ、それにペントハウスが3階にあった。
創業者が共鳴するアイデアを持つ発明家に、革命的な機械を生み出してもらうにはどうすればいいか?日本には行きたくないという彼に、本土で日本に一番近いシアトルで開発すると言うのが、双方の合意だった。具体的なアイデアを持っていたとしても、硬度や構造の計算、それに試作機の製作など、技術者や作業者の支援なくしては、発明品を生み出すことはできない。それらの作業に、日本から従業員を派遣しようというのが創業者の考えだった。
当時のアメリカは、まだ憧れの存在であったので、人を送り込むには不自由しなかったが、発明家の個性の強さを理解していた故、若手を出張の形で派遣した。1年未満の短期であれば、多少の問題には耐えられる。「文句を言わず、ひたすらに言われたことをやれ!」それが、創業者の願いだった。それでも心配で、毎年渡米した。発明家のアイデアを聞き、進捗状況を確認、方向性を指示する。加えて、出張者の意見に耳を傾け、彼らの不満を抑える。今考えてみれば、その時(1972年頃)の創業者の年齢は50代後半であった。
出張者を泊めるためにアパートを購入した。当時、ボーイングは不振で、シアトルの街は不況の中にあり、それ故に安かった。1ベッドルームの部屋に二人。ベッドルームとリビングルームに、一つずつベッドが置かれた。毎日、残業続きで遅くなるであろう出張者が、街中のレストランで、不規則な食事をしたのでは、体を壊すのに違いないと心配をした。このため、駐在員の妻に出張者の食事を作らせたのである。朝と晩、週5日、土日は休みであるが、毎日違う献立。関東・東北出身者が多いので、味を合わせるのが大変だったと、後で神戸出身の奥さんに聞いた。
創業者がそのアイデアに驚いた機械の設計は約1年で完了し、その量産化対応で殆どの技術者が帰国した。今までには無い省力型の機械は、一台1千万円以上であったにもかかわらず、爆発的な売上を記録、会社は大いに発展した。現在でもなお、年商2,000億円の企業の主力商品であることは、今振り返っても驚きである。
私の赴任は、その機械の開発完了直後の1973年であった。その後も、会社は更なる新製品の開発を目指したが、発明家が肺癌によって退社することを契機にR&D部門を閉鎖。会社をロスアンゼルスへ移した。1975年4月になっていた。この会社で開発された機械を日本から輸入、北米全体で販売しようとしたのである。ロスアンゼルスには、日系人や日本人の大きなコミュニティーがあり、当時から日系銀行も何社も進出していた。


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2010年11月20日

「ビッグマックを食する前に!」

「ビッグマック指数」をご存知だろうか?世界各地で販売されているマクドナルドのビッグマックの現地販売価格を基準に算出したものだ。各地の購買力平価水準と比較するときに使われる。その最新版を、イギリスの「エコノミスト」が7月22日に公表した。
それによると、アメリカのビッグマックの値段は、3.73ドル。それに対して、中国では、13.2元である。調査近辺の市場実勢値が、1ドル=6.78元であるので、13.2元を6.78元で割ると、1.95ドルが中国でのドル建て価格になる。アメリカで3.73ドルが、中国では1.95ドルになる。これから、人民元の市場実勢は、48%過小評価されていることがわかる。
因みに、日本では320円なので、それをアメリカでの値段3.73ドルで割ると、85.8円が、「ビッグマック指数」からのドル円相場である。この数字は、昨今のドル円の実勢値である82〜83円とさほど変わらない。円がドルに対して高すぎると議論は、「ビッグマック指数」からは強くは言えないようだ。
さて、この「ビッグマック指数」を使って、前回お伝えした北欧企業の「2011年税引前利益目標値20%」が、実現可能な数値か否かを、中国での生産に限って検証してみる。先日ある企業で、この税引前利益(EBIT)20%の話をしたら、びっくり仰天、別世界の話のような顔をしていたのが印象に残る。とは言え、この北欧企業は上場しているのであるから、この20%は世間にもコミットしていることに注目する必要がある。
この北欧の企業は、青島で計測装置を生産し、中国国内のみならず日本を除く世界各地に輸出している。日本製に近い品質と評価されている。どれほど、輸入部品を使っているか確認していないが、全ての部品が中国製とすれば、例えば、アメリカでは10万ドルで売れるものが、中国では5万2千ドルで売れる価格で生産できるはず。アメリカ販社は、中国からの仕入値の20%を海上運賃などにあてても、輸入原価は62千ドルに収まり、それに販社の経費を売値の20%程を加えても、18千ドルのEBITが残る。中国の製造会社が輸出前に15%の利益を取れば、7,800ドル(=52,000X15%)になり、連結EBITは25,800ドルになる。仮に、輸出比率を50%と仮定すると、2台分で連結EBIT利益が33,600ドル、売上金額158,000ドル、連結EBIT利益率は21%となり、目標の20%を達成できる。
この計測装置は、もともと買収されたアメリカの企業が、製造コストの低減や市場を求めて、中国に工場を移転、製造を始めたものである。技術などの進歩によりこの種の高度の工業製品も、パソコンや電化製品などに見られるように、コモディティ化が進展、ある程度の技術と人材を投入すれば、先進国でも販売できるような物になってきた。そんな時代的背景を認識しながら、時には理論値よりオーバーシュートしがちな為替の状況を読み取り、世界的な視野で生産地を選びとる。会社や事業も、工場や商品も、従業員ですら、動かしうる駒の一つとみなして経営にあたる。発祥の地の北欧での生産に拘泥しない。資本の論理で、利益を極大化するための方策を徹底する多国籍企業の姿が見える。
進行する円高を前に、一体日本は、日本の企業は、どうすればいいのだろうか?


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