2022年09月10日
ビュッケブルグ歳時記 280
「ドイツ東西統一の生みの親」の死
という見出しで、先週は、世界の西といわれる国々と、過去には東に属していた国々では、一人の夢想的改革者として高く評価されていたにもかかわらず、ロシアでは「裏切り者」と蔑まれていたゴルバチョフ氏の訃報が世界中に行き渡ったと思います。
この訃報はドイツにとっては表題が示す通り、東西統一を可能にしてくれた政治家であったことから、彼の死を悼む気配は殊の外大きいように思われます。また、現在行われているウクライナ戦争を考えると、「平和」というものの行方が途方もなく困難になるような気がします。
ドイツの一新聞に載った、ゴルバチョフ氏の志を簡単にお伝えしてみます。
1931年に南ロシアの農村で、ロシア人と父親とウクライナ人の母親の元に生を受けた彼は、集団農場からモスクワの大学で法律を学ぶ資格を取り、同時に哲学を勉強していたライサと知り合う。以来、この二人は公私いずれの場で離れることはなかった。
1985年に、54歳の若さで、ライサと共に、当時すでに凍結したロシアを前任者チエルチェンコから受けつぐ。米國では1981年からカーボーイ・ハットのレーガンが大統領であった。東西ベルリンの間もコミュニケーションなし。
ソビエットのアフガニスタン攻撃をきっかけに世界は核戦争を恐れる時代となっていた。
そこへ Gorbi(東ドイツの国民が親しみを持って用いていた呼び名)は、Glasnost(透明 ーメデイアと公官庁に)と Perestroika ( 改築 ー思想と経済機構に)を社会に命令する。これによりソヴィエットの民主化を図ろうとしたのである。しかし、残念ながら70年間続けてきた社会主義を、特に経済機構での社会主義を立て直すことは不可能であった。
だが彼は常に正義と自由への渇望を持っていたので、他の東ヨーロッパの国々に自由を与える結果となった。
1989年には「ベルリンの壁」が取り除かれ、アメリカとの武器競争も中止となり、「冷たい戦争は終了」と宣言され、1990年にはノーベル平和賞を授かる。
このように彼は祖国以外では栄誉に輝いていたが、祖国は過去にこだわって、共産主義の保存が力を強めていた。1991年にゴルバチョフの主張は音もなく消されて、党首を降りることになったのだが、命があったことは幸いであった。
そして2005年にプーチンが大統領になったが、挨拶でソビエット連邦が崩れたことを20世紀の最大の地政学上の災害であったとして、ロシア帝国を墓穴に押し込んだ首相としての待遇が、ゴルバチョフには待っていた。
しかし今はゴルバチョフは20世紀最大の改革者とみなされていると言っていいと思われる。
1999年にライサが亡くなった時には、自分の人生の存在価値が無くなったとして公の場に出ることも少なくなったが。
このような政治家がいたことに、特に今のような時代、ウクライナ戦争の真っ最中には彼の死に心からのお悔やみを送りたいと思います。
そして「平和」ということの意味を忘れてはいけないと思います。
随分前のことになりますが、近くの小都市の1軒の本屋にゴルバチョフ夫妻が来るとのニュースを見て、友達と二人で馳せつけたことを思い出します。彼らの笑顔を思い出す時には「平和」を思い出し、身の回りの小さな「平和」でも、忘れないようにしたいと思います。
という見出しで、先週は、世界の西といわれる国々と、過去には東に属していた国々では、一人の夢想的改革者として高く評価されていたにもかかわらず、ロシアでは「裏切り者」と蔑まれていたゴルバチョフ氏の訃報が世界中に行き渡ったと思います。
この訃報はドイツにとっては表題が示す通り、東西統一を可能にしてくれた政治家であったことから、彼の死を悼む気配は殊の外大きいように思われます。また、現在行われているウクライナ戦争を考えると、「平和」というものの行方が途方もなく困難になるような気がします。
ドイツの一新聞に載った、ゴルバチョフ氏の志を簡単にお伝えしてみます。
1931年に南ロシアの農村で、ロシア人と父親とウクライナ人の母親の元に生を受けた彼は、集団農場からモスクワの大学で法律を学ぶ資格を取り、同時に哲学を勉強していたライサと知り合う。以来、この二人は公私いずれの場で離れることはなかった。
1985年に、54歳の若さで、ライサと共に、当時すでに凍結したロシアを前任者チエルチェンコから受けつぐ。米國では1981年からカーボーイ・ハットのレーガンが大統領であった。東西ベルリンの間もコミュニケーションなし。
ソビエットのアフガニスタン攻撃をきっかけに世界は核戦争を恐れる時代となっていた。
そこへ Gorbi(東ドイツの国民が親しみを持って用いていた呼び名)は、Glasnost(透明 ーメデイアと公官庁に)と Perestroika ( 改築 ー思想と経済機構に)を社会に命令する。これによりソヴィエットの民主化を図ろうとしたのである。しかし、残念ながら70年間続けてきた社会主義を、特に経済機構での社会主義を立て直すことは不可能であった。
だが彼は常に正義と自由への渇望を持っていたので、他の東ヨーロッパの国々に自由を与える結果となった。
1989年には「ベルリンの壁」が取り除かれ、アメリカとの武器競争も中止となり、「冷たい戦争は終了」と宣言され、1990年にはノーベル平和賞を授かる。
このように彼は祖国以外では栄誉に輝いていたが、祖国は過去にこだわって、共産主義の保存が力を強めていた。1991年にゴルバチョフの主張は音もなく消されて、党首を降りることになったのだが、命があったことは幸いであった。
そして2005年にプーチンが大統領になったが、挨拶でソビエット連邦が崩れたことを20世紀の最大の地政学上の災害であったとして、ロシア帝国を墓穴に押し込んだ首相としての待遇が、ゴルバチョフには待っていた。
しかし今はゴルバチョフは20世紀最大の改革者とみなされていると言っていいと思われる。
1999年にライサが亡くなった時には、自分の人生の存在価値が無くなったとして公の場に出ることも少なくなったが。
このような政治家がいたことに、特に今のような時代、ウクライナ戦争の真っ最中には彼の死に心からのお悔やみを送りたいと思います。
そして「平和」ということの意味を忘れてはいけないと思います。
随分前のことになりますが、近くの小都市の1軒の本屋にゴルバチョフ夫妻が来るとのニュースを見て、友達と二人で馳せつけたことを思い出します。彼らの笑顔を思い出す時には「平和」を思い出し、身の回りの小さな「平和」でも、忘れないようにしたいと思います。
aokijuku at 00:30│コメント(0)│