2017年10月14日

ビュッケブルグ歳時記 164

周りを見渡すと


 既に、近所の外国人住人、仕事関係のロシア帰化人アナについてはお知らせしましたが、今回は、今までに教えた生徒の中にいる(た)移住民子ども達についてお話ししたいと思います。


 と言っても、わたしにとっては、数年前からのシリアやアフガニスタンからの戦場難民問題が持ち上がって以来、移住民についての認識を強いられるようになったというのが実情なのです。ドイツには様々な国からの移住民が多いということも、改めて思い知らされたことです。それまでは、習いに来る子ども達の中に名前とか様子とかがドイツの子ども達とは違う事は感じ取り、出身国を質したりしていたのです。ただ、小学校2年生以上でピアノを習いにくる子ども達は、この地で生まれたか、ごく幼少の時に家族で移住をしたという環境が多いので、ドイツ語に支障を持たないということも、外国人という意識を持たされない理由だったかとも思えます。このように、外国人でも何の差異感も持たずにレッスンをしてきたわけです。


 もう20年前になりますが、兄弟で入ってきた生徒がありました。兄のヤコブは数年でアビテュアー(高校卒業大学入学資格試験)の年になり、その準備のためにピアノは止めました。そしてその年の卒業生総代となり、あの当時は未だあった学校からの3万マルクの賞金を授けられました。その後は、これも未だあった義務兵役を終了し、ハンブルグの、ドイツでは異例の、私立大学で法律を勉強、博士号を取り、現在は大手の会社の弁護士をしています。
 7歳年下のマークスは小学2年生から、ニュルンベルグ大学の歯科入学まで、ピアノを続けました。最後のレッスンに、「僕は、盲腸の手術の時、1回休んだだけで後は皆勤だった」と云いました。云われた先生のわたしが驚くとともに、大喜びをしたという愛弟子です。そういえば、何かの都合、例えばレッスン場の学校の都合などでレッスンが出来ない場合は、両親から「お宅でしていただけないでしょうか」との丁寧な依頼があり、家庭を知るのも良いかとの思いから、送り迎えの両親共々の機会が数回あったことも思い出します。両親は二人とも医者です。
 

 この折りに両親が「私たちは共産主義で灰色の祖国を捨て、自由とより良い生活を求めて、生まれたばかりのヤコブだけを連れてドイツに来た。その他には本当に何も持たなかった。一生懸命働いて今の地位を築き上げた」と云っていたのを思い出すとき、この言葉の持つ本当の意味を今はわたしも少し理解出来ると思うのです。
 理由は、ベルリンに住む一女性ポーランドジャーナリストの本を読んで、1989年をピークとするポーランドからの移住民の在り方を知ったからです。
「我ら、努力家の移民者」というタイトルからも読み取れると思いますが、ドイツで受け入れられる移住者になろうとする努力と、その裏にはドイツ人には負けないという野心も見逃してはならないと読み取れるわけです。
 マークスは今、ライプチッヒで歯科医をしていますが、この兄弟は今でも、何かの機会があると私を訪ねてくれます。ある時、ヤコブが話してくれた彼の今後の生活についての話をご紹介します。「僕が結婚した時には、姓名を彼女の(ドイツ人であることが前提)ものにして、その代償として、子どもの宗教教育(ポーランドは厳正なカトリック)は彼女の望む通りにする積もりだ」
 姓名をドイツ名にするのは弁護士のような職種では、外国名、特にポーランド名ではよい?!クリエントが来ないから、というわけです。両親の話も、ヤコブの話も、何の気も無しに聞いていました。移民となった人達にはこのような悩みがあるなどとは思っても見なかったことです。


 今ではドイツ化したポーランドからの移住者は2百万人以上ということです。
いろいろな国の国民が共存するためには、来る者と、それを受け入れる者との間に深い事情があり、それを克服するためには双方の、非常な努力が必要なことを知らされるこの頃です。


 



aokijuku at 00:32│コメント(0)

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