2016年07月09日

ビュッケブルグ歳時記 135

サッカーの定義?!


 数週間前から始まったヨーロッパ・チャンピオンシップで湧いているこの国のある日、「ようやっとヨーロッパ(国)がプレーし始めた!」という標題の記事が目に留りました。
 終わりまで読んで下さる方々には(国)の意味をお分かりいただけると思います。


 数年前のギリシャ問題、数週間前の英国EU離脱問題等々ヨーロッパは今、政治上で不和の状態にあります。その地でサッカー大会が行われ、勝負が競われているわけです。
 「サッカーは競技ではあるが、その中には、はっきり決められた規則があり、
レフェリーが審判し、フリーキックも設けられている。芝生の上で争われるこのゲームには、EU政治に無いもの、テイームワーク心、融合精神を尊重する気合いがあり、時によってはアウトサイダー勝利も起こり得る。また勝利は競技上の勝利で、相手を滅ぼすということではない競技」なので、今、大会が政治的に危機にあるEUで行われるにはうってつけの時だとこの記事の著者は、政治家だけではなく国民にもサッカー精神を再認識するよう促しているのです。
 「自国賞賛意識が強まりつつある時勢から団結精神が緩んでいることや、メデイアの欠陥などでEUアイデンテイテイが揺さぶられている今、この感情違和の橋を渡るにはサッカー選手権大会などが最も適した道具と云えるのではないか」
 面白いと思ったのはドイツの首相とその時のナシヨナル・トレイナーの類似性です。権威者首相アデナウアーと精神的兄弟と云われたヘルベルガー、ブラント首相とシェーン、コール首相とフォーグト、そしてプラグマテイカーといわれるメルケル首相とローヴェ。アデナウアー時代のことは知りませんが、それ以後の事は耳に残っています。
 また、オランダがある時、ただ蹴り合うサッカーから、4人の選手による守備ラインを考案し、フイールドの空間を有効に使う方法を考え出したことから、
サッカーは体力だけではなく思考力も要求されるゲームとなった、という事なども
新しく知った事です。


 「闘争スポーツと平和唱和はどのような点で合致するかと問う人もあると思うが
シェーントレーナーが『サッカーの流儀は、我々の社会生活の模型のようだ』と
云っていたのが答えとして当たっている。例えば、自分ばかりが優秀ではなく、他の、外国人選手も優秀である事を認めざるを得ない事は、反人種差別に繋がるし、ボアテングのような肌の色の違う隣人を持つ事が、その人の近辺を豊かにすると気づく人も多く出て来ると思われる」
 

 このような考え方がサッカーとEU政治を無理にくっつけた論と思われる方には、理屈好きのドイツ人気質を知っていただけると思い、テーマに選びました。同時に、常に和平を忘れない国民だと知っていただければと思います。それとこの国の多くの人が持っているEUに対する固執信念も平和に繋がる精神だということも。
 今夜は準決勝戦でフランスとドイツが闘います。


aokijuku at 00:30│コメント(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
月別の記事一覧
最新コメント