2015年10月24日

ビュッケブルグ歳時記 119

開眼したこと


 先日届いたメールの中の一言を読んだとき、開眼したような感じがありました。日本の政情に疎いわたしに説明方々、発信者の意見が書いてあったのです。
「日本では今、社会思想的に岐路にあるあるという言い方が、出てきている。学生運動のSEALDsの動きや憲法学者達の動きを見て言っているのだと思われる。しかし私はsilent majority が日本を動かしているとおもっている」
 この「沈黙の大多数が日本を動かしている」という意見に、日独両国の政治の現れ方の違いが思い浮かびました。違いを書いてみます。


 今、ドイツは難民問題をめぐって社会が混沌としています。メルケル首相の、対策に厳然と接する態度は他の政党にだけではなく国民にも強い影響を与えて実行が進んでいる反面、当然反対派も出てくるわけです。こう思うことに過去の歴史が加担していないように願っていますが。                   
 数ヶ月前に書いたドレスデンで発起したPegidaと呼ばれる右翼グループは、どのような理由かなどは問わず、難民、即ち異郷人を受け入れることに反対する人達で、今、機を得たとばかりに毎週月曜日(1989年の統合日に由来)にデモを行っています。イスラム反対、外国人排斥をモットーとして、愛国心に溢れたヨーロッパ人を自称するグループは、1年前の発起の時には4百人足らずだった会員が今週のデモには2万6千が集まったと報道されたことに驚きます。ドイツ中の各地から賛同者が来るのです。
 そして、このグループを規制しようとする反対派グループのデモも同時に行われるのです。今週は1万5千人が参加したということです。この2つのグループが衝突すると暴力となり警官隊が仲裁に入ります。
 このペギダ・グループが一番表面だって避難民政策に反対を示しているのですが、この他に受け入れ地方では村長や市長にモビングや脅迫を行う行う市民も増えていると耳に入ります。ケルンでは市長候補の女性が重傷を負う暴行事件があったことは日本にも報道済みだと思います。
 このように難民受け入れに対して反対派と賛成派がそれぞれの意見を大声で主張するのがこの国です。
                                                  

 このような状況の政情の善し悪しは別として、云いたいのは独国民はそれぞれの意見を大声で表明するということです。各々が意見を持って、個人単位でも、又は同じことを主張する団体に入って主張を示すのはこの国では当然なのです。市民は黙っていないわけでです。これは政治が市民生活の中に入り込んでいて、市民のすることの一つになっているからだと思います。わたしの目には、皆が強制ではない義務のように思って実行しているように見えます。それほどこの国では政治がトランスパレントだと云いたいのです。そしてこれは民主主義の道理に叶っていると思います。市民がいろいろな意見を発表してーーこれは言論の自由に当て嵌まります、その中から最良のものを選ぶということです。国民が黙っていてはこのプロセスはあり得ないことです。


 原発再動にも、改憲にも反対する国民の数は少なくないと思われるのに、現実に行われる政治は国民の意見に沿っているとはいえない日本の状態は、政府だけの責任ではなく国民にも半分の責任があるとは言えないでしょうか。言い換えると国民の声が小さくて政府の耳に届かないのではという懸念が湧くのです。その結果、政府は好きなようにコトを決められるという状況になるとしたら、恐ろしいことです。


aokijuku at 00:30│コメント(0)

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