2015年06月27日
ビュッケブルグ歳時記 111
政治の違い
先週、日本の公職選挙法が改正され、選挙年齢が20歳から18歳に引き下げられ、来年夏の参院選から適用されるということを知ったのですが、この動機が日本の若い人達の政治に対する関心度が上がったためなのか、それとも上げようとするための改正なのかという点で疑問が湧きました。理由は今の若い人達は災害以後も反原発に対してもたいした関心がなく、また憲法改正討論にも興味をもっていないというというネガテイブな世論が多く聞えて来るからです。この世論が正しいとすると、選挙年齢を下げることが政治への関心を高めるとは思えないのです。
ここでドイツの場合を考えてみました。この国でも最近は選挙率が下がる傾向にあるのですが、政治そのものがとても違うという感じがするのです。この国では政治は政治家が議事堂でするものではなく、市民もするもので、誰でもさわれるという形を持って存在しているという感じなのです。政治が市民の生活に融合しているのです。言い換えるとこの国では政治がいろいろな面でトランスパレントなのです。透けて見えるガラスの中にあるものという意味です。
少し詳しく書いてみます。
先ず、政治についての知識を持つことについて。毎日の新聞を読むことや、TVのニュースを聞くことでなんとなく政治が判って来て、次第に関心が湧くと、わたし自身の経験から云うことが出来ます。例えば、数回前に書いた幼稚園の先生や福祉員の待遇改良問題は、5週間のデモや交渉の結果、要求の10%にはおよばなくても2ー4%の昇給が決定して、一応の和解が成立し、子どもを預ける側も、預かる側も気持ちを改めて職場に戻れると判り、市民の要求が通った形があるわけです。形となったことは見えるということで、トランスパレントと云えると思います。
また、家庭から始まって、学校、職場と社会全体がおおっぴらに政治について話し合える社会環境も政治を透けて見えるものにしている大きな要素だと思えます。
わたしの時代の日本では、人との会話に「政治と宗教については触れない」のが
マナーになっていました。そしてこの作法のような習慣は、私の感じ違いでなければ、今でも堅固に残っているように思われるのです。この風習はドイツ社会には全く見当たらないことです。この国では子どもから大人迄、皆それぞれの意見を持っていて、それを公言するのです。そこには外に伝えるというコミニュケーション技術が必要です。「ドイツの政治は言葉でなされている」というのは、日本の新聞にあった讃辞です。とすると、誰もが判るように話をしているのがこの国の政治家であり、議会であるわけです。この基礎は、この国の学校教育に有ると解ります。問題の核心を判り易く示し、意見を募って議論するという話す技術をドイツでは学校で学ばされるのです。学校の成績が筆記試験の結果だけではなく、口述の成績が半分という教育法が、政治上でも政治を庶民にも判らせる上級な話法となり功を奏しているのだと思います。政治家が自分の意見を人に伝える巧みな伝達法を持つことは、それを聞く市民も問題点を理解し易くなり、それが市民も政策を理解して口を出すきっかけになり、ひいては一人ひとり違う意見を自由に云える社会となっているのです。政治側だけではなく、係わる側も透明なわけです。
ある日本の学生が「もし憲法議論会のような集会に出席するような活動が、就職希望会社に知られたら選考で落とされる可能性もある」と云うのを聞いた時には両国の政治の姿の違いに、ほんとうに驚きました。そして前記のように選挙年齢低下改正に、動機だけではなく効果にも疑問が湧いたのです。
先週、日本の公職選挙法が改正され、選挙年齢が20歳から18歳に引き下げられ、来年夏の参院選から適用されるということを知ったのですが、この動機が日本の若い人達の政治に対する関心度が上がったためなのか、それとも上げようとするための改正なのかという点で疑問が湧きました。理由は今の若い人達は災害以後も反原発に対してもたいした関心がなく、また憲法改正討論にも興味をもっていないというというネガテイブな世論が多く聞えて来るからです。この世論が正しいとすると、選挙年齢を下げることが政治への関心を高めるとは思えないのです。
ここでドイツの場合を考えてみました。この国でも最近は選挙率が下がる傾向にあるのですが、政治そのものがとても違うという感じがするのです。この国では政治は政治家が議事堂でするものではなく、市民もするもので、誰でもさわれるという形を持って存在しているという感じなのです。政治が市民の生活に融合しているのです。言い換えるとこの国では政治がいろいろな面でトランスパレントなのです。透けて見えるガラスの中にあるものという意味です。
少し詳しく書いてみます。
先ず、政治についての知識を持つことについて。毎日の新聞を読むことや、TVのニュースを聞くことでなんとなく政治が判って来て、次第に関心が湧くと、わたし自身の経験から云うことが出来ます。例えば、数回前に書いた幼稚園の先生や福祉員の待遇改良問題は、5週間のデモや交渉の結果、要求の10%にはおよばなくても2ー4%の昇給が決定して、一応の和解が成立し、子どもを預ける側も、預かる側も気持ちを改めて職場に戻れると判り、市民の要求が通った形があるわけです。形となったことは見えるということで、トランスパレントと云えると思います。
また、家庭から始まって、学校、職場と社会全体がおおっぴらに政治について話し合える社会環境も政治を透けて見えるものにしている大きな要素だと思えます。
わたしの時代の日本では、人との会話に「政治と宗教については触れない」のが
マナーになっていました。そしてこの作法のような習慣は、私の感じ違いでなければ、今でも堅固に残っているように思われるのです。この風習はドイツ社会には全く見当たらないことです。この国では子どもから大人迄、皆それぞれの意見を持っていて、それを公言するのです。そこには外に伝えるというコミニュケーション技術が必要です。「ドイツの政治は言葉でなされている」というのは、日本の新聞にあった讃辞です。とすると、誰もが判るように話をしているのがこの国の政治家であり、議会であるわけです。この基礎は、この国の学校教育に有ると解ります。問題の核心を判り易く示し、意見を募って議論するという話す技術をドイツでは学校で学ばされるのです。学校の成績が筆記試験の結果だけではなく、口述の成績が半分という教育法が、政治上でも政治を庶民にも判らせる上級な話法となり功を奏しているのだと思います。政治家が自分の意見を人に伝える巧みな伝達法を持つことは、それを聞く市民も問題点を理解し易くなり、それが市民も政策を理解して口を出すきっかけになり、ひいては一人ひとり違う意見を自由に云える社会となっているのです。政治側だけではなく、係わる側も透明なわけです。
ある日本の学生が「もし憲法議論会のような集会に出席するような活動が、就職希望会社に知られたら選考で落とされる可能性もある」と云うのを聞いた時には両国の政治の姿の違いに、ほんとうに驚きました。そして前記のように選挙年齢低下改正に、動機だけではなく効果にも疑問が湧いたのです。
aokijuku at 00:03│コメント(0)│