2013年05月25日

ビュッケブルグ歳時記 61

解せないこと

 一人の母親としてと、長い間ピアノの教育に携わって来た教師として、わたしが観察したドイツの学校教育は、本当にストレスの少ない、ゆったりしたものという感じがします。日本で一時云われていた「ゆとり教育」そのものと云える気がするのです。どこにゆとりがあるかというと、簡単に云えば、詰め込み教育ではないということです。ですから OECD の調査結果ではこの国の子ども達の成績は、詰め込み主義教育が中心の、中国をはじめとするアジア諸国の好成績には及びません。それでもドイツ国は、EUの困難を抱えながらも、一応順調に運営されていると思います。国際関係上でも面目が保たれています。このように自国の内、外の地位を保つために取り組む政治家は、ゆとり教育を受けて来た人達なのだと思うと、詰め込み教育の是非を考えさせられます。

 ドイツの子ども達には学ぶ上でのストレスが少ない、と書きましたが、このことをよく考えてみると、まず、子ども達はその子に合った教育が受けられるということから始まります。これは、義務教育は勿論、義務ですが、その子の能力と希望する職業にそった学校で学べ、終了後はその若者を受け入れる社会があるということです。個人が選択する生き方が許されるのです。そのような環境があれば、だれでも学ぶ上で強制感が少なくなり、ストレスも少なくなると思います。このような制度は、民主主義の個人の自由が尊重されていることから来ることで、個人の能力も尊重される人間性平等と云えるのではないでしょうか。
 これに反して、中国、韓国、シンガポールなどのアジアの国は昔からの伝統がまだ多く残っている考え方で、個人のよりも、家族とか会社とか、その人の属する社会が重要視されている国情で、個の尊重よりも、団体尊重が重く観られているように思われます。皆が同じ制度に従うことで、社会が統治され、個が尊重される民主主義は未だ教育の上でもあまり取り入れられていないと見えるのです。
 日本をアジア諸国の中に入れなかったのは、日本は戦後、民主主義国家になったはずだと思うからです。日本は上記の国国よりは数歩進歩した国のはずです。それなのに、日本の教育制度は依然として詰め込み教育です。教育の目的が良い大学教育に入ることで、そのために勉強をさせられているのが日本の生徒です。有名大学に入ってしまえば、それで人生履歴が決まってしまう社会が未だに根を下ろしています。
 話がとびますが、日本の学校でのいじめの問題は、信じられない残忍さがあるように感じます。いじめる原因を考えると、強制される詰め込み勉強から来るストレスを、いじめで発散させているのはないかとさえ思います。数人が集まって一人をいじめるというのは集団強の表れだとも思います。民主主義は「個」を尊重する考え方です。どうしてこのような大事なことを学校で教えないのでしょうか。
 日本は戦後、民主主義を取り入れただけで、この思想がどのようなものか、どう実践したらよいのか、今まで日本を支配していた思想とのバランスをどうするかなどを考えることが、今でさえ、なおざりにされているのではないかと思います。そして、この中で一番重要なこととして忘れてはならないのは、日本の民主主義達成を行うのは、子ども達だということです。このような大きな役を負っている子ども達に、学校で民主主義の実践練習をさせないで、どこで子ども達はこの思想の実行練習をすることが出来るのでしょうか。
 

 ドイツの学校は生徒が権力を持たされている圏になることも多いのです。たとえば校則は生徒が決めます。ピアスとか兵隊靴の使用が云々されるとき、決めるのは生徒です。禁止と決定した場合でも、自分たちで決めた規則は、学校から強制された規則を守るよりもずっとやさしいことです。


 なぜ、日本が一日でも早く教育制度の方向転換を始めないのかが、標題の「解せないこと」なのです。アジアの国と成績点数を競争するよりも、世界の舞台で存在感の或る人物作りの教育の方がずっと大切なのではないでしょうか。




aokijuku at 00:03│コメント(0)

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