2013年02月23日

ビュッケブルグ歳時記 55

体罰問題をめぐって その2 

もっと大きな問題は,「若い子が自殺する」ということです。日本の若人の自殺数は,世界で最も多いということです。ドイツの例は,2011年に217件です。
 日本では人に対する暴言に「死ね」ということが使われるのをよく読みます。最近では子ども達はメデイアの害を防ぐために「氏ね」という宇を使っていることも読みました。一度失したら2度と戻って来ないものが命であることを知っていたら、そう簡単に云えない罵声言葉だと思われます。ドイツにも罵倒語はたくさんありますが、「死ね」という言葉は聞いたことがありません。ここに、生命についての考え方の違いを見るように思うのです。
 この国の底にはキリスト教が流れているということは折にふれて書きましたが、人々の死に対する考え方の違いがここにに見えるような気がします。この流れは最近どんどん薄くはなっているのですが、しかし「生命」に対する考え方には神聖なものがあり、生命の後に来る死を云々することはタブーとされている感じです。
 十誡の中の「殺すなかれ」は、他人を殺すなかれ、だけではなく、自分の生命をも殺してなならぬという意味が含まれているそうです。そこから20世紀までは自殺は罪業と見なされ、普通の墓地での埋葬は禁止されていたのです。その後、この考えは改善され、現在はこのような禁令はありません。しかし、依然として,特にカトリック派では今でも自殺は罪と考えられているようです。

 これに反して、日本では自殺はある種の「名誉の不文律」的見方があるのではないかという意見を聞きました。侍物語に出て来る切腹や、2次世界大戦で有名になった特攻隊の自主死に、この国の人々はエキゾチックな「名誉を守る作法」を見ているのです。
 この考え方から誘発されるのは、体罰が軍隊によって啓蒙され、いまでも訓練の道具として行われていると同じように、自殺ということと生命の価値との繋がりが戦後もちっとも変わっていないのではという疑問です。昔や戦争時代に考えられていた命の扱い方は、民主国家のそれとは違っているはずです。どのように自分の命を扱うかという自由を履き替えない教育が行われるべきだと思います。前に書きましたが、一度失うと決して帰って来ないものが命であると、命の尊さを子ども達に教えるべきです。どのような適切な方法があるかを考えて、一刻も早く学校教育に取り入れることが、体罰問題を底から解決する方法に思われます。
 このような教育が行き渡ったときには、体罰やいじめに遭った時に、それに反抗する声が子ども達から出るようになると思います。その声が少しずつ広まることで、体罰も自殺も少なくなる社会になると思います。そしてこのような市民の動きが大きくなった時に、日本の民衆主義が市民の声を反映した真の民主主義になったと云えると思うのです。


aokijuku at 00:05│コメント(0)

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