2018年03月
2018年03月13日
【From America】「スーパーマーケットの品物の配置」

私の住んでいるラスベガスはギャンブルのメッカと呼ばれるほどカジノのビジネスが盛んです。ギャンブル好きの人に長く居てもらい、ギャンブルに専念してもらうのが狙いですから、カジノのフロアーには様々な心理作戦が施されているそうです。カーペットの色から照明、スロットマシーンの配置まで、お客様がくつろいで、時間を忘れてゆっくりとギャンブルしてもらうのが目的です。
さて、この心理作戦はなんとスーパーマーケットの品物の配置にも使われているそうです。スーパーマーケットには窓がありません。私は品物を多く置くためには窓があると壁が少なくなるから? かと思っていましたが、これがなんと窓の外が見えないと時間が分からなくなり、つい長居することになることを狙っているそうです。殆どの人が買うミルクは店の一番奥に配置します。ミルクを買うために店内を歩いていく間に、思いがけない品を見つけて「あ、これも買っておこうかな」と思わせるのが狙いだそうです。レジの列に並んで会計を待っている間には、チョコレートやガムなどが置かれていて、100円前後の小さなパッケージだとつい手を伸ばしたくなる。子供が好きな品は、子供の目線の高さに置いて、会計を待っている間に子供がぐずったら親は仕方なくお菓子を買い与えるようになっている。など、様々な工夫が施されているそうです。
日本にもいずれギャンブルが導入される時がくるようですが、カジノとスーパーマーケットにはこんな共通点があることを覚えて、観察してみると面白いかもしれませんね。
2018年03月10日
ビュッケブルグ歳時記 174
周りを見渡すと・・・Xhevat
今、教えている”世界学校” と呼ばれている基礎学校に入って来る生徒の名は様々で、書かれているだけでは判らず、耳で聞かなくては云えない(読めない、呼べない)名が度々あるのですが、標題の名もしかりで、ジェワ と読むことは彼女自身から聞きました。今回は彼女ことをお話ししたいと思います。
この地の基礎学校(日本の小学校にあたる)は4年間で、その2年半生の時に入ってきたのです。動機は1年生の時から習い出していた友達ハナに刺激を受けて、ということでした。
Xhevat Hoxha(姓)という名からも連想できる、少し濃い肌色に茶色の眼が際立つ9歳の少女でした。アルバニア人であることを知りました。アルバニアが昔のユーゴスラビヤであったバルカン地方の一国であるらしいとは思っていましたが、そしてボスニエンやクロアチエンとかなどの国々からの移住民がドイツには多いこともなんとなく知っていましたが、全て”大体”のことでした。
彼女の家族もこのような背景です。ですから、家にあるのはキーボードで、ピアノがあるわけではないのです。そしてピアノ教室に必要な経費はミンデン市が持つということでした。
レッスンを始めるとその理解力の早さに驚かせられました。勿論、指の柔軟さも充分持っていました。あっという間にハナを追い越してしまいました、連弾などで楽しめるかと思っていたのですが、2人のピアノ感覚は違いが大き過ぎました。残念ながらピアノがないので、本格的に演奏することは出来ませんでしたが。
そうこうする間に4年生となり、進学し、Gymnasium(高校)生となりました。他の学校に進学しても、ピアノは続けてよいとの許可を世界学校は出していましたからXhevat にも伝えてありましたが、わたしの期待に反して、先ず新しい学校での様子を見てから、との両親の意見から来なくなっていたのです。
それが2年経ったある日、「又、来ます!」 と云ってきたのです。先生の私には心底嬉しいことでした。13歳になった彼女はスラリと背の伸びた、派手な所のない好もしい半少女になっていました。そして、E.ピアノも借りたとの嬉しそうな報告もありました。
高校での勉強は厳しいので、先ず勉強を第一にと両親に云われているので、それを守っているので、試験期になるとピアノの練習はあまり出来ないと云って、その時間には、少しづつ彼女の家庭の様子や、毎年夏の休暇を過ごすアルバニアの様子を話してくれるのです。
例えば、彼女の家族はイスラム教徒だが、クリスマスは、ツリーなどの飾りがきれいなので家にも飾り付けるというのです。そんなことから、彼女の国について興味が湧きました。少し読んだ限りでは、アルバニアという国は宗教的にも、国情面でもさまざまな困難のあった、混沌とした国ということを知りました。オスマン帝国による占領、モスレム国となり、大戦中はドイツに占領され、大戦後は鎖国、その後、中国やロシヤの影響で共産政権国となり、毛沢東の死後1992年に非共産政権となって民主化された等々。民主化がつい最近なのにも驚きました。
宗教もイスラム共和国であったり、中国共産政権が無信国家としたり、ごく最近、宗教の自由化がなされたということも知りました。
彼女の育ち方は聞いてみるとずいぶん旧式に思われます。子どもの教育を重要視し、道徳面でもドイツの子ども達に較べるとずっと古風で保守的のように思えます。いい意味での古風なので、自由が強い今風との違いに考えさせられます。
このように、あるきっかけから、教えるだけでなく、いろいろなことを教えられる時間でもあるのがわたしのピアノ教室なのです。
今、教えている”世界学校” と呼ばれている基礎学校に入って来る生徒の名は様々で、書かれているだけでは判らず、耳で聞かなくては云えない(読めない、呼べない)名が度々あるのですが、標題の名もしかりで、ジェワ と読むことは彼女自身から聞きました。今回は彼女ことをお話ししたいと思います。
この地の基礎学校(日本の小学校にあたる)は4年間で、その2年半生の時に入ってきたのです。動機は1年生の時から習い出していた友達ハナに刺激を受けて、ということでした。
Xhevat Hoxha(姓)という名からも連想できる、少し濃い肌色に茶色の眼が際立つ9歳の少女でした。アルバニア人であることを知りました。アルバニアが昔のユーゴスラビヤであったバルカン地方の一国であるらしいとは思っていましたが、そしてボスニエンやクロアチエンとかなどの国々からの移住民がドイツには多いこともなんとなく知っていましたが、全て”大体”のことでした。
彼女の家族もこのような背景です。ですから、家にあるのはキーボードで、ピアノがあるわけではないのです。そしてピアノ教室に必要な経費はミンデン市が持つということでした。
レッスンを始めるとその理解力の早さに驚かせられました。勿論、指の柔軟さも充分持っていました。あっという間にハナを追い越してしまいました、連弾などで楽しめるかと思っていたのですが、2人のピアノ感覚は違いが大き過ぎました。残念ながらピアノがないので、本格的に演奏することは出来ませんでしたが。
そうこうする間に4年生となり、進学し、Gymnasium(高校)生となりました。他の学校に進学しても、ピアノは続けてよいとの許可を世界学校は出していましたからXhevat にも伝えてありましたが、わたしの期待に反して、先ず新しい学校での様子を見てから、との両親の意見から来なくなっていたのです。
それが2年経ったある日、「又、来ます!」 と云ってきたのです。先生の私には心底嬉しいことでした。13歳になった彼女はスラリと背の伸びた、派手な所のない好もしい半少女になっていました。そして、E.ピアノも借りたとの嬉しそうな報告もありました。
高校での勉強は厳しいので、先ず勉強を第一にと両親に云われているので、それを守っているので、試験期になるとピアノの練習はあまり出来ないと云って、その時間には、少しづつ彼女の家庭の様子や、毎年夏の休暇を過ごすアルバニアの様子を話してくれるのです。
例えば、彼女の家族はイスラム教徒だが、クリスマスは、ツリーなどの飾りがきれいなので家にも飾り付けるというのです。そんなことから、彼女の国について興味が湧きました。少し読んだ限りでは、アルバニアという国は宗教的にも、国情面でもさまざまな困難のあった、混沌とした国ということを知りました。オスマン帝国による占領、モスレム国となり、大戦中はドイツに占領され、大戦後は鎖国、その後、中国やロシヤの影響で共産政権国となり、毛沢東の死後1992年に非共産政権となって民主化された等々。民主化がつい最近なのにも驚きました。
宗教もイスラム共和国であったり、中国共産政権が無信国家としたり、ごく最近、宗教の自由化がなされたということも知りました。
彼女の育ち方は聞いてみるとずいぶん旧式に思われます。子どもの教育を重要視し、道徳面でもドイツの子ども達に較べるとずっと古風で保守的のように思えます。いい意味での古風なので、自由が強い今風との違いに考えさせられます。
このように、あるきっかけから、教えるだけでなく、いろいろなことを教えられる時間でもあるのがわたしのピアノ教室なのです。
2018年03月09日
2018年03月06日
【From America】「リハビリ病院」

日本の健康保険がどんなに素晴らしいか、ということは海外に出て初めて分かることの一つです。アメリカでは各人が加入している保険によって、診てくれる医師が異なります。ちょっと分かりにくいかも知れませんが、日本の自動車保険や生命保険のように会社がいろいろある、ということなのです。評判の良い医師に診て貰いたくても、その医師が自分の保険を使っていない場合には自費で支払う以外には診ていただくことが出来ません。
一方、65歳になると「メデイケア」という老人保健が使えるようになります。こちらは全国一律で、日本の後期高齢者の保険のような感じと思っていただけば良いでしょうか。殆どの医師や病院がこの保険を認めてくれるので、ほぼどこの医師や病院にかかっても心配はありません。
欧米では入院費用を軽減するために、日本に比べると直ぐに退院させる傾向があります。しかし、病気の種類や病状によっては 直ぐに自宅に戻ることが難しいケースもあります。そのような場合、アメリカにはリハビリ病院という場所が用意されていて、急性期を過ぎた患者は転院して、そこで歩行訓練をしたり、体力を回復させたり、それから自宅に戻ることになっています。この段階でICUや手術室を備えた大病院は必要ないけれど、依然としてケアは必要で、むしろリハビリ訓練に重点が置かれます。
一人暮らしの主人の母が転んで大腿骨を骨折した時には、このリハビリ病院で日常生活に戻る訓練をしていました。帰宅前には自宅を視察に来てくれて、バスタブやシャワーの高さを測り、その高さまで足が上がるようにその人それぞれの自宅の状況に合わせて細やかな訓練をしてくれました。帰宅後にも、訪問看護師や訪問リハビリの方が尋ねてきてくれて、日常生活に戻れるまで面倒を見てくれるので、退院しても安心でした。
義理の母の場合には、このリハビリ病院の良さが分かりましたが、他の方の例を取ると内臓の病気などの場合、病状が急変する場合もあり リハビリ病院では手に負えない状態になって再び大病院のIUCに戻る、という可能性もあり、このリハビリ病院の制度の良さと悪さが浮き彫りになります。
日米の健康保険や病院の入院制度が違いますが、それぞれの良さを上手く取り入れて、患者さんが快適にしかも安全に回復して帰宅できる方法が見つかると良いですね。
2018年03月02日
ブログ2018-6
Kさん
前にもふれましたが
リハビリセンターで出会ったKさんは大正14年生まれです。
シベリアで捕虜として3年近く鉄道工事をやらされたそうです。
93歳になるとぼけてきて、人の名前などなかなかでてこないとわれますが、どうして、どうしてしっかりして話はひきつけます。
なぜか捕虜時代のことはいまでもはっきり覚えているそうてす。
日本人50万人が捕虜で少しでも反発、クレームしたらもう部屋には戻れない、つまりころされます。そのような現実を経験してきているので、耐えること、自然のながれにそうことが身についているといわれます。
リハビリセンターではいろいろな人との出会いがあって勉強になります。
前にもふれましたが
リハビリセンターで出会ったKさんは大正14年生まれです。
シベリアで捕虜として3年近く鉄道工事をやらされたそうです。
93歳になるとぼけてきて、人の名前などなかなかでてこないとわれますが、どうして、どうしてしっかりして話はひきつけます。
なぜか捕虜時代のことはいまでもはっきり覚えているそうてす。
日本人50万人が捕虜で少しでも反発、クレームしたらもう部屋には戻れない、つまりころされます。そのような現実を経験してきているので、耐えること、自然のながれにそうことが身についているといわれます。
リハビリセンターではいろいろな人との出会いがあって勉強になります。