2010年01月24日

【From America】インフルエンザ対策 その3「スーパーのウエット・テイッシュ」

hand wipeアメリカのウインドゲイト緑です。
H1N1インフルエンザ(俗にいう豚インフルエンザ)の被害は世界的になり、重症患者、死者数も増えていますが、日本の皆さんはどんな形でインフルエンザ対策を講じていらっしゃいますか? 外出する時にマスクをする、石鹸で手をよく洗う、外出から戻ったらうがいをする、など様々な方法で自己防衛していることと思います。

普通に生活をしていれば人間の手にはたくさんのバイ菌がいる、ということが明らかになっています。そこで手を洗うことがとても重要なのですが、「手を洗う」事が簡単に出来ない場所ではウエット・テイッシュやジェル状になっている消毒剤を使うのが便利で、今は携帯用の様々な商品が出ていますね。

さて、アメリカのスーパーマーケットの入り口には、大きなウエット・テイッシュの容器が用意されていて、ショッピング・カートを引き出す傍に置いてあります。買い物客は、最初に手を拭き、さらにショッピング・カートを押す取っ手や子供用シートなどを丁寧に拭きます。様々な食べ物を入れるカートの中がバイ菌で一杯では困ります。調理するものばかりではなく生で食するサラダ用の野菜などを手で触るのですから、この手拭は買い物前の大切なステップです。

アメリカの野菜売り場や果物売り場は、日本と違ってパッケージに入っているのではなく「バラ売り」されていますから、大勢の消費者が直接野菜やくだものを手に取って品定めします。当然、食べる前には皮をむいたり、よく洗ったりしてから調理しますが、それでも自分のショッピング・カートに入るまで、一体何人の人が触ったのか? などと考え始めるとキリがありません。

そこで、このウエット・テイッシュの常設はインフルエンザ流行前から実施されています。従ってインフルエンザ対策の一つとは言えないでしょうが、スーパーの衛生管理上、大変良い策であるといえるのではないでしょうか。


midori_windgate at 00:00|この記事のみを表示コメント(0)

2010年01月23日

社会環境の歪み!うつ病など気分障害の患者が急増

財)仁泉指導会講演会3月29日(月)

仁泉指導会という財団がある。なんと大正15年(1926年)7月15日に時の内閣総理大臣田中義一が大正天皇の下賜基金によって設立された(2010年で84年)由緒ある恩賜財団である。*田中義一は「健全な児童を育成するにはまず健全な家庭生活が基本である」と説いています。田中義一は常に目を世界に向けると同時に、我が国固有の文化を尊重し、一貫して教育信条を通し「日本の将来を担う児童育成教育こそが重要である」と決意し、財団を設立し自ら初代理事長に就任し、その目的達成のため生涯を当財団に捧げました。この由緒ある財団の事務局長に昨年就任しました。現在まで公益法人の運営に携わったことがなく右往左往しています。

この財団で3月29日(月)午後2時から築地市場の隣にある築地本願寺の「ブディストホール」で、子供から老人 / うつから認知症(副題:皆の健康観が正しい方向性を向いて生涯健康)をテーマに講演会を催します。
今、現代病の一つとして「うつ病」など気分障害の患者が急激に増えている。急速な社会環境の変化についていけない。職場での人間関係が作れない。日常的な悩みによる落込み等も病気でないかという人が増えている。同じことが子供達の世界でも起こっている。厚労省のデーターでは、中学生の10人に1人は「うつ病」だという。
潜在的には5人に1人ともいわれる。原因は様々だが、配信機器が発達し、日常のコミュニケーションがとれない他、家庭での食事の乱れがある。満腹になるだけの食事はバランスが悪いと健康を維持できなくなり、副交感神経が低下する。このこともうつ病」の原因になる。又、運動能力の低下も副交感神経の低下につながり、脳の活性低下にもつながっているというデーターもある。食事のバランス、運動低下は高齢者の認知症にもつながる。人間がこの世に生まれ死ぬまで「意識の成長・進化」であり、その為には、バランスの良い食事と適度な運動が大切です。

この度の講師の島田修先生は、30数年の歳月をかけ、伝承医学にまつわる様々な技法を現代に再興−本来人間に備わっている自然治癒力(免疫力)について活動されていて、「日常生活とメンタル面の方向性」を話していただきます。
又、小林正信先生は安曇野で「虹の村診療所」を経営、有名な「うつ病」の権威でこころの教育・メンタルヘルスケア」を話していただきます。
余談ですが、安曇野の「虹の村ブランド計画」にこの計画を支援されている島田修先生と先日訪ねました。驚きました。他所から治療にきていた家族が移住。皆さんの協力で社会復帰の施設が作られていて福祉村ができているのです。その上に「虹の村ブランド」の計画が立てられているのです。テーマは「子供と老人の『共生』・伝承医療と西洋医療の『統合』・『生』と『死』の『教育』」で、新たなブランドが誕生しようとしている。感動しました。「意識の成長・進化」を追い求められている両先生の講演をぜひ聞きにきて下さい。無料です。

*添付:田中義一 / 山口県萩市出身 / 1864年−1929年 / 日本陸軍軍人から第26代内閣総理大臣


aokijuku at 00:05|この記事のみを表示コメント(0)

2010年01月22日

我が家の旬な野菜

真穂としみ冬野菜といえば、大根、白菜、ごぼう、ネギなどいろいろありますよね。この時期は、お鍋にたくさんの野菜を入れて楽しんでいらっしゃる方も少なくないかと思います。

さてさて、我が家の旬な野菜は、『サトイモ』。うちのプチ畑から取れたものなんですよ(^0^)/
100117_172044なんとこのサトイモ、実は、以前、父が作ったサトイモをもらったときに、食べきれなくて、そのままにしていたら、芽が生えてしまったので、「捨てるのももったいない!」ということで、プチ畑にとりあえず植えたものなんです。
何も手を加えていないのにある日、芽が生えててびっくり!
まさか実がなるとは思ってなかったのですが、先日、一部掘ってみたところ、大収穫でした!

100117_201051そして、こんな風にしてみました(写真参照)。
砂糖、しょうゆ、みりんでサトイモと一緒に野菜を入れた『マホマホ特製サトイモの煮物』です。
野菜をかなり煮込んだのでやわらかくて、新潟の郷土料理『のっぺ』みたいな感じでおいしかったですよ。




toshimi_maho at 00:55|この記事のみを表示コメント(0)

2010年01月21日

【青木塾便り】No.32「山元雄二郎博士」その9

博士から聞いたアルカ・ポネのお話です。
暗黒街の帝王と言われたアルカポネは1899年NYのブルックリンで生まれ、親分のジョニ・トリノと1920年シカゴに移りました。同じ年に悪名高き「禁酒法」が施行され密造が大きなビジネスになるとシカゴに移り親分引退の後大暴れしました。
FRIは後に「アンタッチャブル」と呼ばれるカポネ逮捕のために特捜班を作って、カポネを追って、シカゴ、マイアミと追いかけ1931年にやっと逮捕しました。
さてここからが博士に聞いた話です。逮捕されそうになるとたくみに逃げ回ったそうですが、彼には親衛隊が10名ほどいつも周りにいて当然射撃の名手もいたでしょうが一人犬並の嗅覚を持つ男がいたそうです。特捜班が密かに近づくとピストルのケースの皮の臭いをクンクンとかぎつけ危機を脱出したことが捕まるまで5、6回あったそうです。
 古代人間も犬並の嗅覚を持っていましたがその後退化したようですが突然変異で先祖がえりがおきたとしか言いようがありません。博士に会うといつもこのような不思議なお話を聞くので帰りのLAに戻る100キロの車の運転中なんともいえない不思議な気分になることが多々ありました。次回は博士と永久機関(フリーエネルギー)のデモを見に行ったお話をしましょう…続く

kiyoshi_kawabe at 00:00|この記事のみを表示コメント(0)

2010年01月20日

私の好きなアーティスト - 2       芥川 沙織 1924-1966

戦後の美術界に彗星のように現れて去った天女画家

芥川ポートレート女流画家、芥川沙織が活躍したのは、1950年代の半ば、太平洋戦争敗戦から10数年を経たころからである。人びとが戦争の荒廃や重い束縛から自らを解き放つ活動が顕著になり政府の経済白書も「もはや戦後ではない」とした時代で自由を求め輝こうとしていた時代であつたその頃、沙織は瑞々しい青春を謳歌しつつ、未来を夢みて上野の東京音楽学校の声楽家に入学した。同窓には後に作曲家として名をなす芥川也寸志がいた。やがて2人は恋に落ち1948年に結婚をした。其の沙織が絵を描きはじめる。

女C音楽から絵画の世界に惹かれて
2人の娘に恵まれた結婚生活だったが、沙織は何に衝き動かされたのだろうか。何か満たされないものがあって彼女を創作活動に走らせたのだろうか。
 やがて彼女は、個展、グループ展などで精力的に作品を発表し続ける。それらは当時の前衛的作家の中にあっても異質で衝撃的なものであつた。その作品は神話や民話の形をとりながら、奔放でいっそう自由自在であり、表現されているものは、「 女 」でありその女たちは烈しく怒り、叫び、泣き、身もだえするという烈しいものであつた。まるで彼女の中に吹き荒れていた不安や葛藤を物語るようにまさしくそれは彼女の自画像であつた。

りぼんをつけた頭離婚、そして渡米
 当時の新聞や雑誌の記事に添えられた写真を見ると、沙織はふっくらと豊かな頬をもつた愛らしい女性であり、常にマスコミの話題になっていたことを窺い知ることができる。
 1958年、沙織は芥川也寸志との11年におよぶ結婚生活を解消した。その後、建築家、間所幸雄と新しい結婚をしてやがて2年後には新天地を求めて渡米する。
 ロスアンジェルスや、ニューヨークのアート、スチューデントリーグに学び帰国してからの画風は、自らの変革を目指すが如く、それまでに見られない硬質な抽象画を描き始め劇的な変化をとげる。それらの作品は色彩も限定され、過去にあったような先鋭的な形や色が影をひそめ、落ち着いたなかに静かな安定を感じさせる作品に変わっていった。
 沙織は、妻、母の役割から解放され、ひとりの女性として自らの意思で外界に眼をむける。広大無限の宇宙に抱かれて自らを成長させる、そんな喜びを感じ始めていたに違いない。

早すぎる死
 それから4年後、彼女に早すぎる死が訪れた。それは1966年1月、妊娠中毒症によって彼女は永遠に帰らぬ人となった。享年42歳であり生きつづけていれば、さらに輝かしい活躍が期待されたろうに。あまりにも早すぎ、惜しみて余りある死であった。

沙織の作品は世田谷区美術館、東京都現代美術館、国立近代美術館、名古屋市美術館、豊橋市美術館、栃木県立美術館などに収蔵されている。
 2009年春には横須賀市立美術館で芥川沙織展が企画され、愛知県の三岸節子記念美術館に巡回し、彼女の画業は広く関心をあつめた。
 美術館以外の作品の多くはいま私の手許にあり、新たな展観の機会を待っている。

自画像

泉の守り神




megumi_asano at 00:08|この記事のみを表示コメント(5)
月別の記事一覧
最新コメント