2010年05月14日
素敵な音色に酔いしれながら・・
昨日は、以前よりお知らせしていましたクルージングイベントがありました。
2階席から夜景を見ながらの食事とおしゃべり。
東京タワー、レインボーブリッジ、そのほか昼間はただの(といったら失礼ですが)オフィスビルが、夜は一種イルミネーションのように変わります。
ホントッぜいたくな時間です
そして、そして今回何と言っても楽しみにしていたのは、夜景を見ながらのサックス演奏
曲は、「卒業写真」、「SWEET MEMORIES」、「どんなときも」など・・。
最後は、あの名曲「男はつらいよ」で終わるという粋な演出に”、さすがっ”と思ってしまいました
夜風がひんやりとしていて、まだ少し寒かったですが、そんな寒さも一瞬忘れるほどのうっとりした演奏で、しばし時を忘れていました
アメリカからはいつも青木塾プレスやブログで興味深いお話を書いてくださっているウインドゲイドさん、そのほか浜田先生や有田さんの奥様や山田さんの娘さんなど、普段なかなかお目にかかれない方ともお話させていただき、とてもうれしかったです
河辺さん、敏郎さん、こんなに楽しいイベントを催してくださり、本当にありがとうございました
2階席から夜景を見ながらの食事とおしゃべり。
東京タワー、レインボーブリッジ、そのほか昼間はただの(といったら失礼ですが)オフィスビルが、夜は一種イルミネーションのように変わります。
ホントッぜいたくな時間です
そして、そして今回何と言っても楽しみにしていたのは、夜景を見ながらのサックス演奏
曲は、「卒業写真」、「SWEET MEMORIES」、「どんなときも」など・・。
最後は、あの名曲「男はつらいよ」で終わるという粋な演出に”、さすがっ”と思ってしまいました
夜風がひんやりとしていて、まだ少し寒かったですが、そんな寒さも一瞬忘れるほどのうっとりした演奏で、しばし時を忘れていました
アメリカからはいつも青木塾プレスやブログで興味深いお話を書いてくださっているウインドゲイドさん、そのほか浜田先生や有田さんの奥様や山田さんの娘さんなど、普段なかなかお目にかかれない方ともお話させていただき、とてもうれしかったです
河辺さん、敏郎さん、こんなに楽しいイベントを催してくださり、本当にありがとうございました
2010年05月13日
【青木塾便り】No.48 「任天堂アメリカ」
山一NYにいる時、ハドソン川を渡ったニュージャージーに住んでいましたが近くに任天堂オーナーのお嬢さんご夫妻が住んでいました。ご主人は大手商社に勤務でやがて任天堂アメリカにトラバーユしてその後現地社長になられました。そのときお聞きしたお話です。
日本でボーリングがピークを打った後ポストボーリングは光線銃が来ると読んで跡地(建物)に光線銃センターを林立させましたがブームにはなりませんでした。アメリカでもシアトルにアメリカ本社を設立して、次の本命を模索していましたが何をしてもうまくいきませんでした。ライバル会社は大半アメリカの基地をたたんで日本に引き上げましたが任天堂はシアトル本社を縮小しましたが、技術者らを何人か残し、歯を食いしばって次に来るものを探しました。赤字になっても一旦閉めてしまうと技術継承、探索が難しくここは頑張って水面下静かに頑張ろうとなりました。
アメリカに残ったメンバーが次のタネを賢明に探し、ネットワークも広げましたました。
ここに今日の任天堂の原点があります。
日本でボーリングがピークを打った後ポストボーリングは光線銃が来ると読んで跡地(建物)に光線銃センターを林立させましたがブームにはなりませんでした。アメリカでもシアトルにアメリカ本社を設立して、次の本命を模索していましたが何をしてもうまくいきませんでした。ライバル会社は大半アメリカの基地をたたんで日本に引き上げましたが任天堂はシアトル本社を縮小しましたが、技術者らを何人か残し、歯を食いしばって次に来るものを探しました。赤字になっても一旦閉めてしまうと技術継承、探索が難しくここは頑張って水面下静かに頑張ろうとなりました。
アメリカに残ったメンバーが次のタネを賢明に探し、ネットワークも広げましたました。
ここに今日の任天堂の原点があります。
2010年05月12日
土方与平さんのこと
お元気だとおもっていたのに「土方与平さんを偲ぶ会」の案内をいただいて土方さんが亡くなられたことを知り驚いた。
土方さんは青年劇場の制作局長であり顧問であられた。いつのころから知り会ったのか今は記憶にないのだが私が何回もケーテコルヴッツ展をしてきたので多分その展覧会を見にきてくださったのがきっかけではないか、と思いかえしている。ときには奥様とお越しくださりそのお話は時を忘れるほどであった。
静かな淡々とした話しぶりではあったがその生涯はおききしたらまさにドラマであった。お父上は土方与志であり、伯爵の位をお持ちで私財を投じて小山内薫と共に築地小劇場をつくり、新劇運動を興した人ときいている。演出家であり劇団の経営者でもあった。
築地小劇場の経営は苦しく土方与志夫人も劇団で使う舞台衣装を制作するため日夜奮闘され夫に尽くされた。1932年頃からはじまった上海事変により戦争色になっていった政府との軋轢があり国家権力は文化活動に対して序々に弾圧をするようになっていき知識人といわれる人達が警察の権力によって検挙されていったという。
1933年家族4人でモスクワに発ち4年後にフランスに亡命し最終的にアルプスのふもとに住んで1941年7月に帰国されたと与平氏にお聞きしていた。
「土方与平さんを偲ぶ会」紀伊国屋ホールにて
4月19日、青年劇場主宰の偲ぶ会に参加させていただいた。ゆかりの方たちがスピーチされて私の知らない土方与平氏が語られた。英語をはじめフランス語、ロシア語など堪能であられた、それは驚くべく見事であつたらしい。
1998年にフランス文化勲章シュバリエを受勲されておられる。
いつも青年劇場のチラシをお送りくださるとき必ず手書きで近いうちお寄りします、、、と書かれていて常に私に期待をもたせられた。
土方梅子自伝
早川書房 刊、1991年 土方与志と1941年に結婚。築地小劇場の創立、
弾圧とソ連亡命、フランスでの窮乏生活―戦中戦後の生活を洋裁で献身的に
夫を支えた梅子夫人の自伝、
土方さんは青年劇場の制作局長であり顧問であられた。いつのころから知り会ったのか今は記憶にないのだが私が何回もケーテコルヴッツ展をしてきたので多分その展覧会を見にきてくださったのがきっかけではないか、と思いかえしている。ときには奥様とお越しくださりそのお話は時を忘れるほどであった。
静かな淡々とした話しぶりではあったがその生涯はおききしたらまさにドラマであった。お父上は土方与志であり、伯爵の位をお持ちで私財を投じて小山内薫と共に築地小劇場をつくり、新劇運動を興した人ときいている。演出家であり劇団の経営者でもあった。
築地小劇場の経営は苦しく土方与志夫人も劇団で使う舞台衣装を制作するため日夜奮闘され夫に尽くされた。1932年頃からはじまった上海事変により戦争色になっていった政府との軋轢があり国家権力は文化活動に対して序々に弾圧をするようになっていき知識人といわれる人達が警察の権力によって検挙されていったという。
1933年家族4人でモスクワに発ち4年後にフランスに亡命し最終的にアルプスのふもとに住んで1941年7月に帰国されたと与平氏にお聞きしていた。
「土方与平さんを偲ぶ会」紀伊国屋ホールにて
4月19日、青年劇場主宰の偲ぶ会に参加させていただいた。ゆかりの方たちがスピーチされて私の知らない土方与平氏が語られた。英語をはじめフランス語、ロシア語など堪能であられた、それは驚くべく見事であつたらしい。
1998年にフランス文化勲章シュバリエを受勲されておられる。
いつも青年劇場のチラシをお送りくださるとき必ず手書きで近いうちお寄りします、、、と書かれていて常に私に期待をもたせられた。
土方梅子自伝
早川書房 刊、1991年 土方与志と1941年に結婚。築地小劇場の創立、
弾圧とソ連亡命、フランスでの窮乏生活―戦中戦後の生活を洋裁で献身的に
夫を支えた梅子夫人の自伝、
2010年05月11日
【From America】「パーテイー上手のアメリカ人」
アメリカのウインドゲイト緑です。
アメリカ人はパーテイーを開くのが上手で、パーテイー好きな国民だと感じます。日本人はお客様を招く時、ご馳走を作っておもてなしをすることに大変なエネルギーを費やします。勿論、それがお客様に対する心遣いの表れであり、招くほうも招かれるほうもその心入れを解します。一方、アメリカ人は食事の内容よりも「会話」を大切にし、一緒に有意義な時間を過ごすことを大切にしているように感じます。
突然のお客様もなんのその。気軽に「うちに来れば?」と誘ってくれます。アメリカ人は持ち前のカジュアルでフレンドリーな気質を多いに利用して、電子レンジですぐに出来てしまうポップコーンをおつまみにしてビールや冷たい飲み物で食前のカクテルにしてしまいます。しばらくお話をしていて、そろそろ食事時ともなれば、宅配のピザがメインコースになります。後は、冷蔵庫の中にある野菜でちょっとしたサラダでも作れば、もう立派なデイナーの出来上がりです。デザートは冷蔵庫の中にあるアイスクリームでもよし、簡単に出来るパッケージのケーキミックスでケーキを焼いてもよし。簡単に友人との素敵な時間を持つことができます。
こんな小さな集まりから40−50人と大勢の人を招くホームパーテイーまで、アメリカ人はとても気楽に友人知人を家に招きます。家のサイズが日本とは比べ物にならないほど大きいから出来るのだ、と思うでしょう。勿論 それは大きな要因であることは否めませんが、その奥底には「食べ物」よりも「一緒に過ごす時間を大切にする」というアメリカ人気質が影響していると思います。一番のおもてなしは「会話」という考え方ですね。
アメリカ人はパーテイーを開くのが上手で、パーテイー好きな国民だと感じます。日本人はお客様を招く時、ご馳走を作っておもてなしをすることに大変なエネルギーを費やします。勿論、それがお客様に対する心遣いの表れであり、招くほうも招かれるほうもその心入れを解します。一方、アメリカ人は食事の内容よりも「会話」を大切にし、一緒に有意義な時間を過ごすことを大切にしているように感じます。
突然のお客様もなんのその。気軽に「うちに来れば?」と誘ってくれます。アメリカ人は持ち前のカジュアルでフレンドリーな気質を多いに利用して、電子レンジですぐに出来てしまうポップコーンをおつまみにしてビールや冷たい飲み物で食前のカクテルにしてしまいます。しばらくお話をしていて、そろそろ食事時ともなれば、宅配のピザがメインコースになります。後は、冷蔵庫の中にある野菜でちょっとしたサラダでも作れば、もう立派なデイナーの出来上がりです。デザートは冷蔵庫の中にあるアイスクリームでもよし、簡単に出来るパッケージのケーキミックスでケーキを焼いてもよし。簡単に友人との素敵な時間を持つことができます。
こんな小さな集まりから40−50人と大勢の人を招くホームパーテイーまで、アメリカ人はとても気楽に友人知人を家に招きます。家のサイズが日本とは比べ物にならないほど大きいから出来るのだ、と思うでしょう。勿論 それは大きな要因であることは否めませんが、その奥底には「食べ物」よりも「一緒に過ごす時間を大切にする」というアメリカ人気質が影響していると思います。一番のおもてなしは「会話」という考え方ですね。
2010年05月10日
【明日の世界】その19「AEFA、アジア教育友好協会」
アジア教育友好協会は主にベトナム、ラオス、タイ、中国雲南省を中心に学校建設、住民参加、国際交流の「3階建理念」で支援しています。
その理事長谷川さんのお話を聞きました。谷川さんは大手商社にいましたのでグローバルに物が見えることが一番の魅力でしょう。日本財団が助成事業として
応援していますが日本にはNPOが35,000あって何でも支援できるものではありません。今までに日本財団の協力を得て小学校100校を立てたとのことです。昨年もAEFAで2,800万円のお金を集めましたがそう簡単に寄付が集まるものではありません。マスコミに活動を知ってもらおうと朝日、毎日の小学校新聞にお話しても確かな成功が見えるまで掲載しないと言われます。ピアノを寄付するにしても古くなったピアノを寄付するではなくて想い出のピアノを寄付しましょうといってくれると印象がずいぶん違うのだがと言っていました。
現在ワンコイン運動をしていて、子供たちが一人500円寄付して外地の僻地に小学校を建てましょうとキャンペーンをしています。そのとき企業や先生方が協力してくれるポイントは自分たちに何のメリットがあるかです。
彼は言いました。この寄付行為には双方向性があることです。日本の小学校50校と結びついて双方向の小学生のコミュニケイションが始まると日本の先生方やお役人、関係者もその大切さを理解してくれます。ただ学校建設費を寄付しましょうでは長続きしません。
NPOにもいろいろな工夫があることを知りました。
その理事長谷川さんのお話を聞きました。谷川さんは大手商社にいましたのでグローバルに物が見えることが一番の魅力でしょう。日本財団が助成事業として
応援していますが日本にはNPOが35,000あって何でも支援できるものではありません。今までに日本財団の協力を得て小学校100校を立てたとのことです。昨年もAEFAで2,800万円のお金を集めましたがそう簡単に寄付が集まるものではありません。マスコミに活動を知ってもらおうと朝日、毎日の小学校新聞にお話しても確かな成功が見えるまで掲載しないと言われます。ピアノを寄付するにしても古くなったピアノを寄付するではなくて想い出のピアノを寄付しましょうといってくれると印象がずいぶん違うのだがと言っていました。
現在ワンコイン運動をしていて、子供たちが一人500円寄付して外地の僻地に小学校を建てましょうとキャンペーンをしています。そのとき企業や先生方が協力してくれるポイントは自分たちに何のメリットがあるかです。
彼は言いました。この寄付行為には双方向性があることです。日本の小学校50校と結びついて双方向の小学生のコミュニケイションが始まると日本の先生方やお役人、関係者もその大切さを理解してくれます。ただ学校建設費を寄付しましょうでは長続きしません。
NPOにもいろいろな工夫があることを知りました。